ジャワ舞踊演目、クロノ・トペンについて
今日は、11月18日(日)のジャワ舞踊/音楽公演の演目のひとつ、クロノ・トペンについて、少し書きたいと思います。先日書いたブドヨ・ブダマディウンほど詳しくはなく、長々とは書けないので、自分の個人的な経験も交えて書きますね。読み物としてお楽しみください。
ちなみに、11月18日(日)の公演については以下から
百花繚乱ージャワ島の音楽と舞踊(公演のご案内) - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
ブドヨ・ブダマディウンについては以下から、お読みいただけます。
マンクヌガラン王宮のブドヨ・ブダマディウン(ジャワ舞踊)に関して - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
では、クロノ・トペン Klana Topengです。
クロノというのは役柄の名前、トペンは仮面という意味です。スラカルタでは、仮面をつけて踊られる男性荒型の舞踊です。
クロノは、パンジー物語に登場する人物です。パンジー物語は、クディリ王国時代の物語。クディリ王国は東ジャワで10世紀か11世紀(どう定義するかで諸説あり)から1222年まで続いた、ヒンドゥー教を奉ずる古代王朝です。先日のブドヨの説明でも少し登場した、アイルランガ王も、この王朝の王です。パンジー物語は、ジャワでは、舞踊や舞踊劇のほかに、影絵芝居(Wayang Gedog)でも使われています。バリでも、舞踊の題材としてや舞踊劇Arjaに使われている物語のようですね。
クロノ・トペンでは、荒々しく気性の激しいバンタラギン国のクロノ・セワンドノ Klana Sewandana王が、敵であるジェンゴロ国パンジー・アスモロバグン Panji Asmarabangun王子の恋人であるデウィ・チョンドロ・キロノ Dewi Candra Kirana(デウィ・スカルタジ Dewi Sekartaji)姫に恋をしている様が描かれています。ガンドゥルン Gandrungと呼ばれる舞踊のジャンルのひとつで、恋の相手は登場しませんが、相手を思って身なりを整えたり、そこに相手がいるかようにふるまったりする動きで恋焦がれる様が表現されます。
クロノ・トペンは、踊り手の個性が非常によく出る踊りで、多くのバージョンがあり、踊り手と太鼓奏者の掛け合いの即興で踊られることもよくあります。今回の公演では、マンクヌガラン様式で踊られます。一般的なスラカルタ様式では、クロノは非常に荒々しいキャラクターで表現される傾向があるのですが、マンクヌガラン様式では、それがコントロールされ、洗練され、動きの美しさに重きが置かれています。そんなところにも、キャラクター表現に違いが見られかもしれませんね。
ちなみに、スラカルタ様式は、スラカルタ王宮(カスナナン家)の舞踊を基にした様式で、マンクヌガラン様式は、同じスラカルタにあるマンクヌガラン王宮(マンクヌゴロ家)で醸成されていったものです。
ジャワは、オランダに長い間、植民地支配され、王家もオランダの陰謀(と言われている)や内紛によって、18世紀半ばから19世紀初めにかけて4つに分けられ、王家は政治的に無力な状態でした。そして、各王家は次第に、文化芸術の中心になることで、その存在感を示し始めたのです。王家にとっては、家臣や領民に王家の正統性を示すことが重要で、そのメディアとなったのが芸術文化だったのです。18世紀後半から19世紀にかけては、「ジャワ文学のルネサンス」と呼ばれるほど、王宮における文芸活動が旺盛を極め、文学だけにとどまらず、舞踊をはじめとする他の分野の芸術においても、戦乱によって破壊された「古のジャワの理想型」をジャワ文化の正統な形として継承、再現することを根幹として各王家は競合し、それぞれの様式を作り上げていくことになったのです。そうして、4つの王宮は、それぞれ特徴のある芸術文化をはぐくんできました。(ちなみに、この部分は、土屋健治さんのいくつかの論文や、Pigeaudの論文を文献として、私が書いた修士論文の一部を抜粋して、書き直しました。)
そんなわけで、スラカルタにある二つの王家では、それぞれ特徴のある舞踊の様式があるわけです。ただし、距離的にとても近いですし、特に最近は踊り手も混じっているので、違いはそれほど大きくないのですけれども。
ブドヨと違って、このようなキャラクターのあるジャワ舞踊は、踊り手の表現はもちろんのこと、動きの型や衣装によっても、その演じるキャラクターが表現されます。クロノ・トペンでは、赤を使うことが多いですが、それは、荒々しさを表します。また、仮面も、クロノ・トペンは赤が多いです。ただ、赤は怒りも表すので、恋焦がれるガンドゥルンの時は、もう少し色の薄い、ピンク色の仮面を選ぶ踊り手もいらっしゃいます。今度の公演で踊られる、ダルヨノさんは、どんな仮面をつけられるのでしょうね。
ちなみに、仮面は、スラカルタの場合、自分用の仮面を使う人が多いです。それは、スラカルタでの仮面舞踊は、仮面を口にくわえて踊られるからです。そのため、くわえる部分の位置が合っていなかったり、頬の辺りの顔の幅や顔の長さと仮面が合っていないと、仮面がずれて踊りにくいと思います。ちなみに、仮面の一番下の部分は、顎の上に乗せるのが一般的です。ですので、大抵、オーダーメイドで作ってもらいます。
いま、スラカルタでは、基本的に、良い仮面を日常的に作ってくれる人はひとりだけ。TBSのナリモさん。私は仮面が大好きなので、同じキャラクターでもいくつも持っているのですが、すべて彼が作ってくれたものです。とても良い仮面を作ってくれます。彼も、もう50代だと思うので、後進が心配なのですけれどもね…。
良い仮面は角度によって表情が少しずつ変わるのですよね。微笑んでいるように見えたり。
仮面をつけて踊る(くわえて踊る)のは、本当に大変です。視界は仮面の目の部分に開いている細い穴からだけと、見える範囲もかなり限られてきますし、とてもバランスがとりにくい。特に、足を高く上げる荒型は、バランスを取るのが大変です。 そして、手や腕の位置も見えないので、慣れないとずれてしまって、大振りになってしまうこともしばしば。また、仮面舞踊は、首の使い方も動かし方も違います。仮面をつけない踊りと同じように踊ればよいわけではないのです。それでは、仮面が生きてこない。仮面を生かす踊り方をする必要があります。表現豊かに踊るには高い技術と、役柄への深い理解、自分を客観的に見る力が必要です。
加えて、仮面をくわえていることの大変さもあります。私は、仮面が直に感じられるので、くわえて踊るのが嫌いじゃないですけど、特に、クロノのような、荒型の激しい踊りは、くわえているのが、ちょっと大変に感じることも。仮面も材質によっては、結構重いですし、クロノは鼻が長いので、重くなりがちなのですよね。
踊り手は、仮面をつけずに登場して、舞台上で仮面をつけます。そして、舞台上で仮面を外して終わります。歯でくわえているので、ずっと、「い」の口をしているわけです。体調が良い時はよいのですが、ちょっと風邪気味だったりすると、私の場合、よだれがダラダラ垂れてきたりします(!)。それで、舞台上で仮面を外すのは、気を使います。糸引くよだれを気付かれないように切りながら、ゆっくり、仮面を外してみたり(笑)。ちょっと汚い話ですみません。結構、いろんな苦労があるものです。
実は以前、今回踊られるダルヨノさんに、仮面をつけて踊ることに関して、少し聞いたことがあるのです。仮面と一体になるように踊るのかどうかということ。ダルヨノさんの場合は、仮面と距離を置くのだそうです。仮面に取り込まれないというか。これまでも、ダルヨノさんが仮面舞踊を踊られるのを、何度も見たことがありますが、今回の公演で、さらに円熟味を増したダルヨノさんがどのように踊られるのか、とても楽しみです。
ちなみに、私自身が仮面舞踊を踊る時は、仮面とあまり距離を置かないかもです。人それぞれなのでしょうかね。もっとも、これから変わっていくのかもしれませんけど。
余談ですが、スラカルタとジョグジャカルタの間にあるクラテン県のある村では、仮面劇が盛んだったようです。最近は、それほど演じられないようですが、私も、数回見たことがあります。長い時は、朝から夕方まで、ずっとやっていました。パンジー物語を題材にした、ジョコ・ブロウォという題名の劇だったと思います。ここでも、仮面は口でくわえて演じられます。劇なので、喋りの部分も多いのですが、しゃべる時は、仮面の下の方を持ってはずし、顔の前にかざしながらしゃべります。とても田舎らしい、土臭い、のんびりとした劇です。入れ代わり立ち代わり、延々と続くので、見ているほうも、ご飯を食べたり、休憩したり、おしゃべりしたり、のんびり見ています。踊りの部分もあり、その中でも最も注目されるのが、クロノです。ここのクロノは、私にとっては本当に面白い!蘭の花の長い首飾りをつけているのが印象的です。洗練されているわけではなく、とても田舎臭いといえなくもないのですが、うまい人が踊ると、とにかく自然。作られた感じがしないのですよね。それでいて、役柄の雰囲気がにじみ出ている。また、面白いのは、スラカルタやジョグジャカルタでのクロノは、シリアスな感じに踊られるのですが、クラテンでは、もっとゆるくて、コメディっぽい要素もあるのです。特徴的なのが、キプラハン kiprahanと呼ばれる部分の踊り。スラカルタなどでは、身なりを整えるような動きが続くのですが、クラテンの場合、それに加えて、水浴びをしたり、凧揚げをしたり、ギャンブルをしたりする動きが入るのです。とても面白いです。スラカルタの仮面舞踊は、ここから影響を受けて作られたと聞いたことがあります。
スラカルタでのクロノは、ある程度即興で踊られる場合も多いですが、作品として決められているものも、何作品があります。ガリマンNgaliman氏、マリディMaridi氏、スナルノSunarno氏のものなどがポピュラーです。それぞれ似てますけれどもね。それぞれ高名な振付師だったガリマン氏やマリディ氏のことは、私は調べたことがないのですが、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校の教員で、高名な振付師であり、荒型の素晴らしい踊り手であったスナルノさんの作品は、このクラテンに通って、クロノの作品を作られたと聞いています。スナルノさんは、残念ながら、すでにお亡くなりになっています。亡くなられる数か月前に、クラテンのこの村でクロノを踊っているビデオを見たのですが、踊られている時に、付けていた蘭の花の首飾りが切れたのが象徴的でとても印象に残っています。
マンクヌガラン王宮でも、以前はもっと仮面舞踊が盛んだったと聞いたことがあります。19世紀半ばの、仮面舞踊の写真を見たことがあります。でも、詳しいことは、私も調べておらず、わからないですけれども。
ジョグジャカルタでも、たまに、仮面舞踊を見ます。やはりポピュラーなのはクロノですかね。仮面を使った舞踊劇も何度か見たことがあります。それから、ジョグジャでは、ワヤン・ウォン(舞踊劇の一種)でも、動物系の一部の役柄で、仮面が使われますね。ちなみに、ジョグジャカルタでは、仮面は口にくわえるのではなく、ひもでとめます。
他にも、Kridha beksa wiramaというジョグジャカルタのテジョクスモ王子が20世紀初頭に作った舞踊の私塾では、仮面舞踊が有名だったらしいです。(Kridha beksa wiramaは、ブドヨ・ブダマディウンの説明にも少し出てきましたね。)Kridha beksa wiramaは多くの素晴らしい舞踊家を輩出しましたけれども、長い間、活動を止めていたので、そこの仮面舞踊も、かなり無くなってしまったのではないかと思います。何年か前に、私も親しくさせていただいている、テジョクスモ王子のひ孫の女性が、この私塾を復活させ、少しずつ、活動を始めてはいるので、これからの活動に期待しています。一度、この私塾の持っていた仮面舞踊を復活させたものを見たことがありますが、とても興味深かったです。この私塾はマンクヌガラン王宮の舞踊とも、とても縁が深いのです。私も2回ぐらい、練習に参加させていただきましたけれども、やはり、ジョグジャカルタ王宮よりも、この私塾の舞踊に、マンクヌガラン王宮とのつながりをより強く感じましたね。
他にも、ジョグジャカルタでは、ダラン dhalang (影絵人形芝居師)が、仮面をつけて演じる演劇、トペン・ダランを見たことがあり、とても面白かったです。
また、私が親しくさせていただいている、ムラピ山の中腹のTutup ngisor村のパデポカン・チプト・ブドヨでも、仮面を使った舞踊劇が演じられています。ここの村は、マンクヌガランの舞踊劇とも縁が深く、また、地理的にジョグジャカルタに近いので、ジョグジャカルタの文化も入ってきており、また、その土地の芸能もあり、いろいろミックスされて、とても面白い場所です。
スラカルタでも、クロノ、パンジー、スカルタジの3人で踊る、仮面舞踊の作品がありますね。ガリマン氏の作品と、マンクヌガラン王宮の作品。いつか、日本でもやってみたいものです。他に、トペンを使うのは、同じパンジー物語に登場する、グヌンサリがあります。特にスナルノ氏による作品は、私は好きで、よく上演させてもらいました。
最初の方に、クロノ・トペンはガンドゥルンというジャンルの舞踊だと書きましたが、ガンドゥルンは、男性一人で踊る舞踊ではいくつかあり、大抵、ポピュラーな踊りです。荒型だと、私自身が学んだ舞踊だけでも、クロノ・トペン以外に、ガトコチョ・ガンドゥルン Gatotkaca Gandrung、ガルド・ヤクソ Garuda Yaksa、優型だと、ガンビル・アノム Gambir Anom、メナッ・コンチャル Menak Koncar、トペン・グヌンサリ Topeng Gunungsari(2種類)があります。もっとたくさんあるでしょうね。
ガンドゥルンでは、サンプール(ジャワ舞踊に使う長い布)を両手にとって、両手を広げて、(想像上の)女性を追いかけるように、ズイ、ズイと前に進む動作があることが多いのですが、私が学んだ時に、先生に言われたことが、とても印象に残っています。それは、「両手を広げすぎるな。鶏を追い込むように、両手は狭めでせまれ」ということ。「鶏を追い込むように」というのがおかしくて、でも、的確な表現で、真剣に踊っているのに、なんだか笑えてくることがあります。それでも、そういう意識でやると、迫力も出て、うまく表現できるので、面白いものです。
クロノ・トペンは、即興性が高いことでも知られています。本番はある程度決めて踊ることが多いですが、マンクヌガラン王宮での練習では、いつも、一番前で踊る人が即興で決め、みんな、それについていくという感じです。大枠は決まっているのですけれどもね。それでも、即興は、踊り手と太鼓奏者の生の駆け引きがあって、エキサイティングです。いろんな合図が飛び交います。そういう意味で、演奏かは踊りを、踊り手は演奏をよく知っているのがとても重要になります。踊り手は、太鼓ができる人も多いですね。少なくても、口で太鼓の手は歌えます。私も踊りの太鼓はかなりやりましたよ。もちろんクロノも。踊り手との練習でも太鼓をやらせてもらっていたこともあります。まだまだ、即興はなかなか難しいですけれども…。昔は、ジャワの芸術家は、踊れて歌えて演奏できるのが当たり前でしたけれど、最近では分業が進んで、そういう人はとても少なくなりましたね。良い演奏家でも、踊りが理解でき、踊り手の気持ちが理解でき、踊りやすい太鼓をたたける人は、ごくわずかです。踊り手でも、演奏や曲の流れが理解できる人が少なくなってきていると思います。一般的には、生演奏で舞踊練習できる機会も少ないですし。そういう意味では、マンクヌガラン王宮では、生演奏で練習する機会が多くあり、とても貴重な場です。
個人的な話ですが、実は、私自身は、クロノ・トペンにとても思い入れと、思い出があるのです。確か、1994年か95年だったと思いますが、その時、私はアメリカに住んでいたわけですけれども、クロノ・トペンを初めて踊る機会があったのです。ジャワ舞踊も始めたばかりの時期だったと思います。私の通っていたカリフォルニア芸術大学では、音楽科に、ワールドミュージック演奏の専攻があり、その中に、ジャワとバリのガムラン、ジャワとバリの舞踊の授業がありました。専攻の学生だけではなく、誰でも履修できる授業だったのです。私は舞踊科の学生でしたけれども、(多分アジア人だからという理由で)先生に誘われていたので、授業を受けていました。ジャワ舞踊は、女性舞踊と男性舞踊の授業があり、女性舞踊の方は、舞踊科の学生も何人か履修していたのですが、男性舞踊の方は、ガムラン演奏を学んでいる音楽科の男子学生ばかり。身体も堅く、アメリカ人で体もごつく、あまり踊れる感じではなかったわけです。そんな中で、私は舞踊科のモダンダンサーでしたし、体も柔らかくて足も上がり、踊りをすぐに覚えるのも、動きをコピーするのも得意でした。そんなこともあって、あるイベントで、クロノ・トペンを踊らないかと、先生に誘われたわけです。私は軽い気持ちで「オッケー」とその話に乗りました。ジャワ舞踊についてもそんなに知っているわけではなく、怖いもの知らずでしたね。イベントまで日にちもそんなになく、踊りの先生は、カウントで、踊りを教えてくれました。そして、たまに、サロン(という楽器)で、メロディを演奏して、何度が踊ってみて、こんな感じだからと。私は、カウントで踊りを覚えるのは得意でしたし、問題なかったのですが、なんと、本番まで、一度もガムランと合わせる機会がなかったのです。ぶっつけ本番です。ちなみに、この時のクロノは、ジョグジャカルタ様式だったと、ジャワに留学した後に気付きました。
本番、始まってみると、曲のメロディが、踊りの先生と練習していた時のものとは、全く違いました。びっくりしましたが、もうしょうがないと、とにかく、メロディは聞かずに、カウントで踊りましたね。まだ、太鼓が聞けるようなレベルではなかったですし。幸い、太鼓は、ジャワでも有名な演奏家で、そのころ私の大学でジャワガムランを教え始めたばかりの、ジョコ・ワルヨ Djoko Walujoさん。どんな感じだったのか、私は全く覚えていないのですが、きっと、うまく合わせてくれたのだろうと思います。まあ、よくもやったなという感じですね。
その時に、実は、先述のスナルノさんが、たまたま息子さんを連れてアメリカにいらしていたわけです。私は、初めてお会いしましたし、その方が、ジャワの高名な踊り手/振付家で、クロノ・トペンの第一人者であることも、もちろん知りませんでした。そして、彼が私の衣装の着付けをしてくれたのを覚えています。その彼の前で、クロノ・トペンを踊ったわけです。いやぁ。今思うと、よくぞ踊ったものです。知らないということは幸運というべきか。ずいぶん後になって、彼がどんな人なのかを知って、冷や汗が出ましてけれども。でも、とても気さくな良い人でしたけれどもね。私の元夫と、とても仲良しでした。
ちなみに、踊ったのは、UCLAで、野外の芝生の上だったことを覚えています。アメリカ人で、一番最初にガムランを学んだ方は、実は黒人の女性で、舞踊家でもあった、ガートルースという方なのですが、彼女の追悼イベントでした。ちなみに、アメリカ人で二番目にガムランを学んだのは、ロバート・ブラウンという民族音楽学者で、ワールドミュージックという言葉を作った人です。彼が、アメリカの多くの大学にガムランを普及させ、多くのガムラン教師を現地からアメリカに連れていきました。私は、サンディエゴに住んでいた時に家が近かったこともあり、個人的に付き合いがあり、のちに彼のNPOのプロジェクトにもかかわっていましたが、まあ、いろいろ複雑な方でしたね。もうお亡くなりになりましたけれども。
話はそれましたが、そんなこんながあって、私は、ジャワに行ったら、必ず、クロノ・トペンを学ぶぞと決めていたのです。2004年には、クロノ・トペンを学んでいたと思うのですが、公演する機会はずっとなかったのですよね。普通、スラカルタでは、男性荒型の舞踊は、女性は踊らないですから。芸術大学の授業では必修なので女性も学びますけれどもね。マンクヌガラン王宮は例外で、マンクヌガラン王宮では、ラングンドゥリヤン Langendriyan(ジャワのオペラと呼ばれる舞踊劇)は、すべて女性によって演じられていたので、女性が男性舞踊を踊る伝統がありました。私も、練習ではよく男性荒型を踊らせてもらったものです。でも、公演となると、やはり男性ですよね。男性優型の舞踊は、女性でもよく踊らせてもらえましたけれども、荒型はあまり機会がなかったですね。実は、マンクヌガランの小プンドポでは、男性荒型を2度ほど公演させてもらったことがあるのです。ラングンドゥリヤンのメナッジンゴ Menak Jinggaと、女性だけでやったPerang kembangという作品中のガトコチョです。とても素晴らしい経験でしたけれども、やはりクロノを踊る機会はなく。ですので、11月18日の公演でも演奏いただく、ガムラングループ・ランバンサリの皆さんに、2017年に定期演奏会でクロノを踊ってほしいというオファーが来た時は、本当にうれしかったです。最初にクロノを踊った時から20年以上たって、やっとリベンジできる、納得のいくクロノが踊れる機会が来たわけです。あの公演の時は、本当によく練習しました。ある程度納得できる出来になったかなと思います。
なんだか長々と書きましたが、そんなわけで、私にとっては、クロノ・トペンはとても思い入れのある舞踊なわけです。
ですので、私は、クロノ・トペンは見るのも大好きです。
今度の公演は自分も違う舞踊で出演するので、ダルヨノさんが踊られるのを見れるかどうかわかりませんが、とても楽しみです。ダルヨノさんは、本当に素晴らしい踊り手です。ご来場くださる皆さまにも、是非、楽しんでいただきたいなぁと思います。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
マンクヌガラン王宮のブドヨ・ブダマディウン(ジャワ舞踊)に関して
今日は、11月18日に東京の北とぴあで行う公演「百花繚乱―ジャワ島の音楽と舞踊」の演目のひとつ、ブドヨ・ブダマディウンについて、いろいろ書いてみたいと思います。論文ではないので、論拠など詳しいことは示していないです。ちょっと専門的になりますが、参考として、読み物としてお楽しみいただければと思います。(私がジャワ舞踊に関して修士論文を書いたときに調べた文献を基にしています。)
ちょっと、箇条書きっぽくなってしまっている部分もありますが、ご容赦を。
ちなみに、公演に関しては、以下のブログに書きましたので、ご覧ください。
百花繚乱ージャワ島の音楽と舞踊(公演のご案内) - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
では、ブドヨ・ブダマディウン Bedhaya Bedhah Madiun についてです。
ブドヨ・ブダマディウンは、中部ジャワ、スラカルタのマンクヌガラン王宮(マンクヌゴロ家)で踊られる舞踊のひとつです。ブドヨとは、ジャワ舞踊の形式のひとつで、9人、または7人の女性によって踊られる、非常に洗練され、多くのジャワの哲学的思想を含む、ジャワの王家にとっては非常に重要な舞踊です。ブドヨ・ブダマディウンというように、形式名と個別の名前を足して呼ばれます。
まず、ブドヨとはどういうものなのかについて書きますね。ジャワのブドヨの起源は諸説ありますが、少なくともジャワのヒンドゥー王朝の時代、アイルランガ王治世時の11世紀ごろからあったとされています。ヒンドゥー時代のブドヨの踊り手は7人であり、イスラム時代になってから、9人となりました。ジャワの神話や超自然的パワーと直結しており、それ故、ブドヨは超自然的な力を持ち、王を中心とした王国の結束と平和を守るものとされます。
ブドヨは儀式とともに発展してきた舞踊で、スラカルタのカスナナン(ススフナン)王家に伝わる最も神聖とされるブドヨ・クタワンは、いまだに門外不出で、上演時や練習時にも多くの供え物が必要です。このブドヨ・クタワンが、現在残っているすべてのブドヨの母、基と言われているので、少しブドヨ・クタワンについて書きますね。
ブドヨ・クタワンの起源は諸説ありますが、スラット・ウェドプラドンゴSerat Weda Pradanggaには、イスラム・マタラム王国三代目の偉大な王スルタン・アグン(1613-1645年在位)が、スナン・カリジョゴの助けを得て創作したと書かれています。以下、要約です。
「スルタン・アグンは夜中、瞑想中にガムラン・ロカナンタgamelan Lokananta(天界のガムラン、kemanak, kethuk, kenong, kendhang, gongの5つの楽器)の音を聞いた。それは、美しく、荘厳な調べで、魅惑的な力に満ちていた。王はものも言えないほど驚いた。そのメロディーはしばらくの間、はっきりと聞こえ、空を漂っていた。彼はそのメロディーを心にしっかり刻みつけながら、神々の時代に7人の天女がガムラン・ロカナンタと歌にあわせてブドヨを踊っていたことを思い出していた。朝が来るまで王は眠れなかった。次の朝、王は王宮の音楽専門家たち(empuning karawitan)を呼んだ。王は彼らに夜、何が起こったのか詳しく伝え、ブドヨを創り、あの夜聞いたメロディーをその伴奏とする考えを伝えた。彼らが作曲を終わる前に、突然、王の前にスナン・カリジョゴ(Sunan Kalijaga、イスラム神秘主義九聖人のひとり)が現れた。彼はブドヨ音楽の創作を助け、祝福を与えた。そしてこの舞踊は神からの贈り物であり、ジャワ王の印として王家の神聖な財産とされるべきであると助言したのである。この曲はグンディン・クタワンgendhing Ketawangと名づけられた。この作品は王国の悪魔祓いの機能を持ち、繁栄、秩序、安全、富、幸福の度合いを高め、それがジャワ王の子々孫々まで続いていくものであるとされる。ヒンドゥー時代のブドヨは7人の天女の象徴として7人であったが、王は9人のブドヨ舞踊を作ることを希望し、踊り手は、彼の8人の高官(bupatih nayaka)の未婚の娘たちから、美しく優雅なものがそれぞれひとりずつ選ばれ、また、宰相(papatih dalem)の未婚の娘または孫娘から、美しく優雅であるばかりでなく、ガムラン音楽のテンポを知っており、舞踊のリーダーになれるものがひとり選ばれた。これは、クラトン(王宮)の重要な柱である高官たちとクラトンとの繋がりを強める意味があり、ブドヨ上演のたびに、王への完全なる忠誠を思い出させるのである。踊り手たちがこの舞踊の練習を始めたとき、南海に住む精霊たちの女王、クンチョノ・サリ(Kangjeng Ratu Kencana Sari, またはニャイ・ロロ・キドゥルNyai Lara Kidul)が花嫁衣裳(kampuh bangun tulak)で現れ、日が暮れた後、毎晩3ヶ月にわたって、踊り手たちにグンディン・クタワンのためのブドヨ舞踊を教えた。彼女はこの曲を大変気に入っており、この曲が演奏されるごとにそれを楽しむためにやって来るので、グンディン・クタワンが演奏されるときは、必ず完全な供え物と、曲が奏でられている間中、香をたくことが必要なのである。演奏するものたちは清くなければならない。また踊り手は、南海の女王、クンチョノ・サリが教えに来たときに着ていたような、花嫁衣裳を着なければならない。これよりのち、グンディン・クタワンのブドヨ舞踊はクラトンに代々伝わる財産となり、現在のスラカルタ王家にプソコ(宝)として伝わり、王の即位記念日の祝いに踊られているのである。」 (要約終わり)
そのブドヨを持っていることが、王の王国の長としての正統性を示し、ブドヨは、国の平安、高貴さ、尊厳を与え、強国に導くものとされています。人間の世界であるミクロコスモス(小宇宙)の中心である王が、マクロコスモス(大宇宙)との間の調和を保つために、ブドヨは、見えない害する力に対する護符として王国の平和を守り、王国内の結束を強める役目があるのです。また、舞踊だけではなく、踊り手もブドヨと呼ばれ、王のシャクティSakti(超自然的能力、神聖な力)のひとつとされていました。
現在残っている他のブドヨは、すべてこのブドヨ・クタワンを基にして、創作されました。それ故、どのブドヨも、ブドヨ・クタワンほど重要ではないものの、多かれ少なかれ、同じような役割を持っています。
9という数字は、ジャワ人にとっては一番大きな数字であり、大宇宙と小宇宙の具現化に関連して議論されます。それ故、ブドヨの9人の踊り手も、大宇宙と小宇宙が具現化されたものなのです。これは、ジャワの人が、大宇宙と人間の世界(小宇宙)を並行するものと考えている信仰に関連しています。それによると、人間の生活は、いつも、いろんな方向や星々や惑星からくるエネルギーの影響下にあります。そのエネルギーは、人間に豊かさと平安をもたらすかもしれないし、害を与えるかもしれない。それは、個人個人が、コミュニティが、そして特に国がどうあるのか、人間の生活や行動が大宇宙と調和しているかに依って決まるのです。(クジャウェン Kejawenの考え方のようですね。人は一人で生きられないという。個人的には、Sedulur papat lima pancer(とても簡単に言えば、人間は4人の目に見えない兄弟と生まれてきて、一緒に一生を送るというような考え方)といった考え方も関連しているように思います。興味のある方は調べてみてください。)
大宇宙のシンボルとしての9人のブドヨの踊り手は、9つの方向によって象徴されています。中心としての真ん中、北、南、東、西、北東、北西、南東、南西の9つです。その他に、この世界にある自然の象徴でもあります。星、月、太陽、空、大地、空気、火、風、生物の9つです。
伝統的な王国の考え方では、王はDewa(神)の子孫であり、王宮の文化は、神々の環境と同一であり、すべては神聖と考えられていました。この伝統的な王国の考え方では、人々は、国と大宇宙は並行するものだと考えていました。王の8つのSakti (Asta sakti)に中心として王自身と王宮に1つを加えて9という数字がここでも表れている。これは、ブラフマーの教義にある、世界の中心に須弥山があり、太陽、月、星々が囲んでいる、山頂には、シヴァ神がおり、それを8つのlokapala または、世界を守る神々が囲んでいる、というものと同じです。
一方、小宇宙の象徴としてのブドヨは、人間の体にある9つの穴に象徴されます。
また、体の各部にも象徴されます。
その場合、
1.Batak= 頭 考えと精神から具現化するもの
2.Endhel ajeg = 欲望 心が望むもの
3.Gulu (Jangga) = 首
4.Dhadha = 胸
5.Apit ngajeng = 右手
6.Apit wingking = 左手
7.Dndhel weton/ wedalan = 右足
8.Apit meneng/ kendel = 左足
9.Buncit = 性器
これは、完全な人間の出現を具現化するものです。
ただし、今回、上演するブドヨは、7人で踊られるものなので、両足を象徴する踊り手はいません。7人の場合、Batakは頭、Endhel ajegは欲望、Guluは首、Dhadhaは胸、Apit ngajengは右手、Apit wingkingは左手、Buncitはお尻(性器)を象徴するとされます。首、胸、お尻は、五感を司る頭に、右手と左手は欲望に準じた動きをします。
ブドヨには、BatakとEndhel ajegが二人だけ立って踊る(ほかの踊り手は座って踊る)場面がありますが、BatakとEndhel ajegの間の敵(人間自身の欲望)との闘い、そしてロマンスは、例えば善悪、左右、高低など、人生を送る上での対立や葛藤のシンボルなのです。
ちなみに、9人のブドヨが許されているのは、ジャワ王家の本家のみになります。ジャワ中部には、4つの王家があります。スラカルタに2つ、ジョグジャカルタに2つです。スラカルタのカスナナン家と、ジョグジャカルタのスルタン家では、9人のブドヨですが、スラカルタのマンクヌゴロ家と、ジョグジャカルタのパクアラム家は分家とされるので、7人のブドヨとなります。(厳密にいえば、王の称号は本家の2家だけで、分家は候というべきかもしれません。でも、マンクヌゴロ家は、インドネシア独立までは、自らが主権を持つ領土を持ち、租税を得ることもでき、いくつかの事項を除いて王と同じ権利を認められていたので、称号は王ではないとしても、王に仕えるものではなく、王と同等の立場だったのです。その意味で、日本語では王と称されることが多いです。)ただし、近年では、マンクヌゴロ家でも、新しい9人のブドヨが作られています。
ジャワの人々は、舞踊としてのブドヨを、宗教的、魔術的なもの、神聖なもの、瞑想状態に導く一つの手段、と考えていたようです。
今回のブドヨ公演でも、お供え物を準備して公演に臨む予定です。
それぞれのブドヨには、テーマがあります。ブドヨの音楽では、散文詩の斉唱が重要ですが、その歌詞から、テーマとなった物語が分かります。Dewa RuciやKarna Tandhing(ジャワ版マハーバーラタより)、Panji(東ジャワ固有の物語)などの物語がテーマになったブドヨなどがあります。また、アドバイスがテーマになったもの、王をたたえるもの、ロマンス(愛)がテーマとなったブドヨなどもあります。そして、王家にとって重要な歴史的出来事がテーマになっているものもあります。
ブドヨの踊り手は、全員同じ衣装を着、ゆっくりとした、優雅な、流れるような洗練された動きで、全員がほぼ同じ振り付けを踊り、星座(宇宙の運行)を表しているとも、戦いの隊列を表しているとも言われるフォーメーション(隊列)からフォーメーションへ移っていきます。役柄表現もクリアではなく、ストーリーやテーマを理解するのは困難です。
つまり、抽象的で象徴的な、芸術性の高い、非常に深い精神的世界がそこに広がっているのです。そして、当時のジャワの人たちの哲学が象徴されているのです。
さて、ブドヨ・ブダマディウンのストーリーも、舞踊中に斉唱される歌詞の中に記されています。それによると、16世紀後半に中部ジャワにイスラム・マタラム王朝を開いたパヌンバハン・スノパティ王Kanjeng Panembahan Senopatiと、マディウン領主娘、ルトノ・ドゥミラRetna Dumilah のロマンスが描かれています。
パヌンバハン・スノパティがマディウンを攻めた時、ルトノ・ドゥミラの父であるマディウン領主は敗走しました。そして娘、ルトノ・ドゥミラが、パヌンバハン・スノパティに対峙するよう命じられたのです。ルトノ・ドゥミラはキャイ・グマランKyai Gumarangと名付けられた非常に霊力のある剣を持ってました。
戦いの場で、パヌンバハン・スノパティは、ルトノ・ドゥミラに戦いを挑むことはなく、なんと、彼女に彼の王妃(正妻)となるように口説いたのです。ルトノ・ドゥミラはそれを受け入れます。ちなみに、その場面は、舞踊の後半に、二人の踊り手のみ立って踊る時の、剣を落とす場面であらわされています。(Batakの踊り手がパヌンバハン・スノパティ、Endhel ajegの踊り手がルトノ・ドゥミラとなります。)
そして、戦いは終わり、ルトノ・ドゥミラはマタラム王国へ行って、パヌンバハン・スノパティの妻となりました。
ちなみに、現在のジャワ中部の4つの王家は、すべてこのイスラム・マタラム王朝が分かれたもので、パヌンバハン・スノパティは、ジャワの王家の祖先です。
それから、豆知識として、衣装は、ブドヨ・クタワンのように、花嫁衣裳と同様ではないですが、マンクヌガラン王宮で、ブドヨ・ブダマディウンを踊る時は、今回の公演で使用する衣装と同じものが使われており、それが伝統となっています。衣装にもいろんな意味があるのですが、そこまでは残念ながら調べきれていないです。
ブドヨ・ブダマディウンは、マンクヌゴロ7世(K.G.P.A.A. Mangkunegara VII)時代(1916~1944在位)、マンクヌゴロ7世とジョグジャカルタ(スルタン)王家ハムンクブウォノ7世の王女、Gusti Kangjeng Ratu Timurとの結婚によって、ジョグジャカルタ王宮からマンクヌガラン王宮にもたらされました。この時代、マンクヌガラン王宮の踊り手と演奏家の何人かが、ジョグジャカルタに送られ、ジョグジャカルタ様式舞踊を学んで、マンクヌガランに持ち帰りました。そして、マンクヌゴロ7世の指導の下、ジョグジャカルタ様式の型を残しつつも、優美なマンクヌガラン様式へと昇華されました。ジョグジャカルタからもたらされた舞踊は、ブドヨ・ブダマディウンのほかに、スリンピ・パンデロリSrimpi Pandelori、スリンピ・ムンチャルSrimpi Muncar、ゴレッ・ランバンサリGolek Lambangsari、ゴレッ・モントロGolek Montroなどがあります。また、余談ですが、マンクヌゴロ7世と王妃 G.K.R Timurの間の一人娘、Gusti Nurul (G.R.Ay. Siti Noeroel Kamaril Ngasarati Kusumawardhani)は、毎週日曜日、おつきの者たちと共に、ジョグジャカルタの、G.K.R. Timurの兄(Tejokusuma)の舞踊学校(Krida Beksa Wirama)に通い、舞踊を学んでいたと聞いています。このように、マンクヌゴロ7世時代は、ジョグジャカルタとの密接な交流があったのです。そして、マンクヌゴロ7世自身も芸術に造詣が深く、王宮での舞踊練習も王自らが指導したと聞いています。また、その頃は、王族・貴族と王家に仕えるものにとって、舞踊は必須の教養だったのです。そんな歴史のもと、マンクヌガラン王宮のブドヨ・ブダマディウンは、形成されていったのです。
誤解がないようにひとつ記しておきたいのは、ブドヨ・ブダマディウンは、ジャワの深い精神性を引き継ぐ重要な舞踊ですが、マンクヌガラン王宮では、儀式で踊られることはないです。どこの王宮でも、ブドヨのほとんどは、儀式のためではないです。儀式に深く関わっているのは、ブドヨ・クタワンのみでしょうかね。以前はジョグジャカルタ王宮のブドヨ・スマンも同じような役割があったのかもしれませんが、現在では、ほとんど踊られません。ブドヨ・クタワンも、ここ数年はカスナナン王家の内紛のあおりを受けて、完全な形では上演されなくなっており、廃れていってしまうのではと心配です。
マンクヌガラン王宮では、儀式に深く関わる舞踊は実はありません。ここ2〜30年は、数奇な運命を辿ったブドヨ・アングリルムンドゥンが、儀式に関連した舞踊になってきていますが、もともとはそういう舞踊ではなかったですし、そのブドヨでなければならないことはないので。マンクヌガランは、もっとオープンで、親しみやすい王宮ですね。もともと、歴史的にも庶民のために戦い、庶民に近い王家でしたし。女性の重用も、マンクヌゴロ家が始まった時から重要視されていましたしね。なんだか、話が逸れましたね。
ちなみに、ジョグジャカルタ王宮でのブドヨ・ブダマディウンは、2種類記録に残っているそうです。マンクヌガラン王宮に伝わった方の種類は、ほぼ消滅しかけていたのですが、数年前に、その舞踊の「掘り起こし」をやっていました。ビデオとして残すための上演を見に行ったのですが、なかなか興味深かったです。記録が正確に残っていなかったようで、マンクヌガラン王宮にも、ジョグジャカルタ王宮から情報を探しに来ていらっしゃいました。「掘り起こし」された、ジョグジャカルタのブドヨ・ブダマディウンは、マンクヌガラン王宮のものと、かなり似ていましたが、マンクヌガラン王宮にはない部分もありました。ジョグジャカルタの舞踊は、テンポが遅いこともあり、入場や退場の歩きの歩幅も、スラカルタに比べて狭いので、時間がかかります。そのこともあってか、なんと、1時間半もかけての上演でした。ちなみに、マンクヌガラン王宮のものは40分程度です。もちろん、ジョグジャカルタ王宮では9人で踊られます。もう一種類のブドヨ・ブダマディウンの方は、今でもたまに上演されるので、私も何度か見たことがありますが、そちらの方はもっと短く、途中でチブロンという太鼓の入る、ジョグジャカルタの他の一般的なブドヨと似た構成だったと記憶しています。ただ、マンクヌガラン王宮と似た方のブドヨ・ブダマディウンの「掘り起こし」公演の後、(王宮内で、夜、TBYによるビデオ撮りだったこともあり、見ていた人は、たしか20~30人で、そのうち三分の一ぐらいがジョグジャに長く住んでいる外国人と、かなり少ない人数だったのですが)、ジョグジャの踊りの先生たちの感想が、こぞって「退屈、つまらない」というものだったのに、本当に驚きました。だから、廃れてしまったのかもしれせんが、ジョグジャカルタで、最近一般的に踊られるブドヨは、もっと変化に富んでいるので、そういう意味では退屈だったのかもしれませんね。私にとっては、とても、とても興味深かったのですが。そういう意味では、マンクヌガラン王宮の方に伝わっているブドヨ・ブダマディウンは、古いブドヨの形を残すものなのかもしれません。私自身は、マンクヌガラン王宮でも、ジョグジャカルタ王宮でも舞踊の練習に参加させていただき、ジョグジャカルタでは、意識的にマンクヌガラン王宮に伝わっている演目を学びましたけれども、個人的な感想は、意外に、マンクヌガラン王宮の方に、古い形が残っており、それがまだ盛んに踊られてポピュラーであるけれども、ジョグジャカルタの方では、かなり変化しており、古い形のものは、ほとんど踊られないのではないかということです。マンクヌガラン王宮に伝わり、現在でもとてもポピュラーな、スリンピ・ムンチャルも、ジョグジャカルタでは、王宮周辺でも、その存在さえ知らない人の方が多かったです。このスリンピは、ジャワのお姫様と中国のお姫様の役柄で、それぞれ2人ずつの4人で踊られるのですが、マンクヌガラン王宮では、ジャワと中国では、衣装だけでなく、動きがかなり違うのです。でも、ジョグジャカルタで、数年前に「掘り起こし」され、公演された時、ジャワと中国は衣装だけ違い、動きは全く同じ。ジョグジャカルタによくあるスリンピの形になっていたのです。おかしいと思い、何人かの年齢が上のジョグジャカルタの舞踊の先生(50代ぐらいの方々は全くこの踊り事を知らない人が多かったので、60代、70代の方々)に聞いたところ、何人かは「昔は、動きも違っていたはずだけれど…。」ということだったので、やはり、昔は、マンクヌガランのように、動きも違っていた可能性が高いかなと思います。また、今は詳しくは書きませんが、ゴレッも、マンクヌガランに古い形が残っていると思います。もちろん、マンクヌガランでは、様式を変えているので、ジョグジャカルタとはかなり違った雰囲気ですけれども、振り付けは、基本的に同じなので、古い振り付けや形式が残っているのではないかと思います。それが良いとか悪いとかということではなく、たぶん、重要視されている部分が違うのでしょうね。私にとってはとても興味深いです。もっとも、ジョグジャカルタにもいくつかのスタイルがあったようなので、その辺はもっと複雑でしょうが。なんだか、またまた話がかなりそれましたね。
詳しく書くとキリがないので、ブドヨに関しては、結論のみ簡単に書いた感がありますが、このくらいにしますね。他にもいろんな関連情報があるのですが、また別の機会に。
こういろいろ書いてみると、あらためて、ブドヨはジャワ芸能の真髄とも言える精神性を持つ舞踊だと気づかされます。このような大事な舞踊を踊らせていただけることへの感謝の念が尽きません。
王や王家と書くと、前時代的な印象を受けるかもしれませんが、私個人としては、それはすべて象徴だと感じます。結局のところ、すべては自分自身。こういう舞踊は、すべてと調和し、本来の自分自身(静けさ?)に立ち返るためのひとつのツールなのかなと、踊りこむほど、感じることが多くなっています。少なくとも、私自身は、呼吸も体も心も整う感覚を味わっています。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
百花繚乱ージャワ島の音楽と舞踊(公演のご案内)
いつも読んでくださってありがとうございます。
今日は、宣伝です。
11月18日(日)、東京都北区の北とぴあにて、「北とぴあ国際音楽祭2018」参加公演として、ジャワ舞踊とガムラン公演「百花繚乱ージャワ島の音楽と舞踊」を行います。詳細は、以下のサイトからもご確認いただけます。
Langenbeksaさくら - ホーム | Facebook
私は、ブドヨ・ブダマディウンという、女性7人で踊る舞踊に参加します。中部ジャワ、スラカルタのマンクヌガラン王宮に伝わる舞踊です。
ブドヨについては、また別の記事に詳しく書きたいと思いますが、ジャワの王家にとっては、とても重要な意味を持つ、「重い」舞踊です。この舞踊を日本で踊らせていただくにあたって、マンクヌガランの王家の方々にもご協力いただき、王様(マンクヌゴロ9世)から許可をいただけたのです。とてもありがたいことです。
ブドヨは、踊り手の人数が多いですし、ジャワ舞踊人口のとても少ない日本では、公演が難しいと思われていました。でも、踊り手も演奏者も、長い年月、研鑽を積み重ねて、この舞踊が日本でできること、とても感慨深いです。私にとっては、夢のひとつが叶います。
以前、この舞踊の衣装について、このブログにも書きました。
ジャワ舞踊の衣装(1) - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
そして、7月に靖国神社でも奉納させていただきました。
靖国神社みたままつり、ジャワ舞踊奉納 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
靖国神社では、録音を使っての上演でしたが、北とぴあでは、ガムラングループ・ランバンサリによる生演奏です。
やはり、生演奏だと、全く違います。それも、とても楽しみ。多くの人に是非見ていただければと思います。
ジャワに住んでいた時、幸運にも私は、2013年に、マンクヌガラン王宮の大プンドポで、生演奏でこの舞踊を踊らせていただきました。それも最も責任が重いとされるパートで。よくも外国人の私に、王宮の重要なイベントで踊らせてくれただけでなく、その重要なパートを任せてくれたものだと思います。マンクヌガラン王宮のオープンさに感謝です。本当に素晴らしい経験をさせていただきました。マンクヌガラン王宮で、何度も何度も、先生方やジャワ人の先輩たち、後輩たちと一緒に練習させてもらいました。何も考えなくても踊れるぐらい、踊りこんだと思います。この踊りを初めて学んだのは、2003年か2004年の事だったと思いますが、特に2011年からの5年間は、この舞踊を、マンクヌガラン王宮で本当によく練習しました。40分の長い演目ですが、多い時は週に2~3回練習したかも。その機会と仲間があったのが、私にとってはとても幸運でした。ジャワで長い間培われ、受け継がれてきた感覚が、しっかり私の中に入っています。その経験が、今回の日本での公演につながってきていると思います。2016年に日本に帰ってきて、東京でブドヨ・ブダマディウンの舞踊練習を始めて2年。みんなで協力して、ここまでやってこれたと思います。一緒に練習するほど、心がつながってきたと感じます。違う個性がひとつになるのを感じます。とても気持ちの良い感覚です。そして、ジャワでジャワ芸能を学んだ日本人の先人の方々が道筋をつけておいてくれたからこそ、この公演が可能になったと、感謝でいっぱいです。そして、是非、次へ、次世代へと繋いでいきたいです。
私たちを受け入れ、指導し、一緒に練習してくれたジャワの方々、この公演にご尽力いただいたジャワと日本の方々への感謝を込めて踊りたいです。
今回の公演は、ジャワから素晴らしいゲストも!ダルヨノさんです。
ジャワの王宮舞踊だけではなく、リアントさんのバニュマス地方の楽しい舞踊もありますよ。
そして、ガムランを使った現代曲も。ゲストの植川さんも素晴らしい。
演奏は、いつも現地の人にも負けないぐらい素晴らしい演奏をしてくださる、ランバンサリです。
langenbeksasakura | ランバンサリ(ガムラン演奏)
他にも、ゲストの演奏者の方々も入ってくださいます。
ブドヨ・ブダマディウンを踊るのは、ラングン・ブクソ・さくら
langenbeksasakura | ラングン・ブクソ・さくら
ジャワのマンクヌガラン王宮で研鑽を積んできたメンバーです。
私たちの渾身の舞台、魂の舞台を是非見にいらしてください。お待ちしています。
チケットは、以下から、お求めいただけます。
よろしくお願いいたします。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
中国の思い出(1)~中国へ行くことになったきっかけ
いつも読んでくださってありがとうございます。
最近、中国を旅した時のことを、たまに思い出します。ずいぶん前の事なのですけれども。記録のために、忘れてしまわないうちに、思い出したらぼちぼち書いていこうかなと思います。
中国では、実は、3回に分けて、計10か月ほど滞在する機会がありました。初めて行ったのは、1999年の事。実は、3回とも、ある基金にお金を出していただいたのです。長くなるのですが、まず、その話から始めようかなと思います。
その頃、私はアメリカに住んでいました。カリフォルニア芸術大学を卒業し、在学時代から始めていた音楽と舞踊のグループの活動を続けていたころです。このグループは、私と、出会ったばかりの頃の元夫を中心に作ったグループで、私が舞踊の振り付け、彼が作曲を担当していました。使っている楽器に特徴があって、ガムランからヒントを得て、石の板で作った楽器のアンサンブルだったのです。一定の良い評価も得ましたし、一から楽器を作って、いろいろ実験をして、ジャワのように、踊りと音楽が密接な関係を持つ作品を作らせてもらい、とても素晴らしい経験をさせてもらいましたが、そのことについては、また別の機会に書ければよいなと思います。
いろいろ公演しているうちに、中国に昔、石の楽器のアンサンブルがあったと教えてくれた人がいたのです。
その頃、アメリカの文房具会社が作ったある財団が、カリフォルニアの7つの大学の在校生、最近の卒業生、職員を対象に、中国限定で、1年以内の期間で滞在できる奨学金(グラント)を出すことになったのです。その文房具会社の創立者が、1920年代に中国に1年滞在し、人生が変わるような経験をしたので、今の若い人たちにも、そのような経験をしてほしいとの目的で創設されたグラントです。そして、中国で冒険をしてきてほしいということ。冒険ですし、出来るだけ現地の人たちと交流してほしいということで、中国国内では原則、飛行機の利用は禁止で、遠距離でも夜行電車やバスを使うことになっていました。そして、アメリカに戻ったら、自分のいるコミュニティに、その経験を何らかの形で還元することになっていました。なんだか、こういう奨学金を出すのが、アメリカらしいなぁと思います。
私がその数年前に卒業したカリフォルニア芸術大学もそのグラントの対象になっていました。私自身は、それほど興味があったわけではないのですが、冒険好きの私の元夫(その頃は、結婚したばかりの夫)が、このグラントを取って、中国へ石の楽器を探しにいかない手はないと主張し、グループのほかのメンバーも誘って、それぞれ、このグラントに応募することになったのです。
いろんな事情があって、最終的に、グループのメンバーでこのグラントに応募したのは、私と(その頃の)夫のみでしたけれども、二人とも、無事に4か月分のグラントを得ることができ、石の楽器のアンサンブルを探しに、中国へ旅立つことになったのです。応募には、中国へ行く目的、中国でやりたいこと、詳細な旅行計画、予算などを提出したと思いますが、財団側も、なかなかの冒険だと気に入ってくれたようです。出たお金は4か月分だったのですが、二人がそれぞれグラントをもらっていて、でも夫婦だったので、ホテルの部屋は一つで済んだこともあり、また、その時の中国の物価が思ったより安く、お金があまりにあまって、結局、その時は6か月滞在しました。
グラントを得てから、実際に中国に旅立つまで、どのくらいの時間があったのか、今となっては覚えていないのですが、二人とも忙しくて、中国語もあまり勉強せずに、ポンっと行ってしまった覚えがあります。私は、本などで多少勉強した覚えはあるのですけれども、夫はほとんどしていなかったと思います。でも、世界どこでも、英語なら通じるだろうと、たかをくくっていた面もあったと思います。
中国へは上海から入りました。もう初日から困りましたね。言葉が通じなくて。ご飯を食べるのも一苦労でした。ちょっと外れた地域だと、ご飯が食べられる場所もわからず。今なら、英語が通じる人も増えたのでしょうけど、1999年の中国は、英語よりもロシア語ができる人の方が多かったように思います。英語が通じる人は、本当に少なかったです。幸い、日本人の私は漢字の読み書きができるので、筆談でなんとかしのいでいました。
それにしても、初めての中国は衝撃でした。夫は、アラブと北欧系のハーフでしたけれども、概して西洋人の顔つき/体つきでしたし、上海の外灘(観光地)などを歩いていると、それなりに目立つと思うのですが、一緒に歩いている私の方が、じろじろと見られるのです。それも、頭のてっぺんから足の先まで、なめるようにじろじろ見られる感じ。日本やアメリカで、そんな風に見られることはまずないので、衝撃でした。
その頃の私は、かなり気が強い方だったので、逆に睨み返していましたけれども…。
思うに、私は現地の人だと勘違いされていて、西洋人の男と歩いているなんで、どんな女だろうという感じだったのかもしれませんね。その後も、あちこちで、私は現地の人だと勘違いされることがしばしばだったので。
上海では、楽器の事だから、音楽学院へ行けば何かわかるだろうし、大学なら英語がわかる人もいるだろうと、上海の音楽学院を訪ねることにしました。そこでの詳しいことはあまり覚えていないのですが、石の楽器のアンサンブルは、湖北省の武漢の近くで発掘されていることが分かり、とりあえず武漢にある音楽学院を訪ねていくことになったのです。
今回はここまで。
また、気が向いたら、ぼちぼち続きを書きたいと思います。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
<今日の植物>
入道ヶ岳(椿大神社御神体)登山
いつも読んでくださってありがとうございます。
10月24日、妹と鈴鹿の入道が岳に登ってきました。ここのところ、毎月お参りに行っている椿大神社のご神体とされる山です。涼しくなったら登ろうと、以前から計画していたのですが、その割には、何の準備もせず、前日になって、バタバタと用意する始末。ですので、ルートも決めず、行き当たりばったりの旅でした。
ただ、登山ということで、それなりの装備はしていきましたよ。登山靴を履き、防寒、雨対策もし、お昼ご飯やおやつ、飲み物のほかに、非常食も少し持っていきました。ちなみに、私自身は、富士山や、中国の崋山や衡山、ジャワのムラピ山など、いくつかの山に登ったことがありますが、登山初心者に入ると思います。かなりゆっくり登りました。
朝9時ぐらいに椿大神社から出発して登ろうと前日決めたのですが、朝少し出遅れ、おまけに渋滞にはまり、また、登る前に、いつも行っているお気に入りの小岸大神社へも急いでお参りしたので、椿大神社から出発できたのは10時ごろになりました。
椿大神社へのお参りは下山後にすることにして、ここから左に登っていく道を、神集愛宕社の方へ向かいます。
実は、登山前に写真を撮るのを忘れて、この神集愛宕社の写真は下山後の夕方に撮ったものなのですが、一応載せておきます。
この鳥居の前には、これから登山するらしい50~60代ぐらいの男女の15人ほどのグループが、ガイドらしき人と集まっていましたが、そこを追い抜いていきました。
この神集愛宕社の階段を上がっていくと、北尾根ルートらしいですが、妹が階段は嫌いだというので、ここから左に行く、井戸谷コースを登ることにしました。
コースを歩き始めると、そのすぐ後から、グループの方たちも同じ方向へ。その方向は、井戸谷コースのほかに、二本松コースへも分かれるのですが、結局その方たちも、同じコースを登ってこられました。大勢は、ある意味心強いのですが、後ろから来られると、なんだか、こちらもペースが乱されますね…。離れたり、近づいたりだったので、道も狭いですし、なんだか近づいてこられると焦ります。大きなグループなので、かなり遅れる方も何人かいましたが、先頭のガイドはぐんぐん登ってきますし。まあ、時間的制限があったのかもしれませんね。
井戸谷コースは、沢沿いを登っていく、とても素敵なコースでした。その日はとても良い天気でしたが、早朝まで雨が降っていたので、水量も多かったのかもしれません。石を伝って沢を超す場所も何か所かあり、プチ冒険気分。かなり急な場所もあり、つかまれるように鎖やロープが張ってある場所もありましたが、鎖が付いている杭が抜けたり、頼りない感じ…。
登り始めてすぐのところで、今年の5月と6月に熊の目撃情報と注意喚起が貼られていました。ちょっと怖いですね。こういう時は、大勢人がいた方が安心かも。鈴の付いた杖を持ってこればよかったかな。
コースには、赤い印がところどころに付けられているので、それに従っていけば、道を間違えません。また、ところどころに、番号付き通報ポイントがあり、目安になります。井戸谷コースは、6番まであったと思います。
サワガニもいましたよ。
こんな感じで、ところどころに通報ポイントがあります。
写真では分かりにくいかもしれませんが、なかなか急な登りです。
道がかなり細いところも。右側は急なスロープです。
通報ポイント3を超えたあたりから、しばらく沢沿いを登っていきます。
小さな滝がたくさんあり、綺麗です。
途中、避難小屋もありました。
きれいな花も咲いていましたよ。
良い天気。
なんだか素敵な明るい林
このあたりから、落ちていた枝を2本拾って杖にして登りました。けっこう助けになりましたよ。
なんだか、太くて白い雲が。龍の胴体みたい?
素敵な林が続きます。
おおっ。通報ポイント6です。
視界が開けてきました。
馬酔木があります。咲いたらきれいでしょうね。
振り返ると絶景が!俄然元気が出ます。
頂上は近いように思えます。雲は速く流れていました。
足元にはかわいらしい花が。
ますます景色が良くなってきます。
分岐点に来ました。
北の頭って何だろう。とりあえず、入道ヶ岳頂上へ向かうことに。ここから、道は平たんになります。
景色もきれい
不思議な植物が!
遂に、頂上はすぐそこです。大鳥居が見えます。
ススキが綺麗です。もうすぐ頂上!
遂に、頂上の大鳥居到着です!
良い景色です。
北側には、鎌ヶ岳と御在所岳(たぶん)が見えます。
鳥居付近で、持ってきた玄米栗ご飯のおにぎりとミカンでお昼ご飯。運動の後のご飯はおいしいものですね。登ってくるときは、半そででも良いぐらい暑かったのですが、頂上付近は風が強く、寒いほど。汗でも冷えるので、急いでウルトラライトダウンとウインドブレーカーを着ました。
ちなみに、写真を撮りながらゆっくり登ったので、頂上に着いたのが12時15分ぐらい。頂上に45分ほど滞在した後、下山し始めました。これも行き当たりばったりで、「北の頭」を通って、北尾根コースで下山することにしました。
北の頭までは、ほぼ平地で、すぐに着きます。
途中、美しいリンドウの花がいくつか咲いていました。
北の頭からの景色も素晴らしいです。
北の頭からは、いろんな方向へ行けそうです。
ちなみに、後で知ったのですが、椿大神社の奥宮自体は、イワクラ尾根コースの方に行ったところにあるらしいです。次回登る機会があれば、行ってみたいです。
北尾根コースは、初めは、背の低い馬酔木らしき木の林と笹原が続く、素敵な道。そのうち背の高い木々の林を抜ける道です。緩やかな坂道もあれば、急な坂道もあり、結構大変でした。行きに拾った杖用の枝を取っておいてよかった。通報ポイントも10番まであり、井戸谷コースよりも距離的には長そうです。ただ、井戸谷コースよりは、下るのは楽かなと感じました。井戸谷コースは、急な道が多く、道が濡れていて滑るところも多かったので、下るには大変な感じでしたので。でも、景色は井戸谷コースの方が変化が多くて楽しかったです。
このコースにも、避難小屋がありました。
途中で鉄塔をくぐります。
ひょっこりと、神集愛宕社に続く石段の途中に行きつきました。
上の方に行けばお社があるのかもしれませんが、疲れていたので、とにかく下ります。
遂に出口です!
約2時間で下ってきました。
平日だったこともあってか、帰り道は、他の人には誰にも会わず…。静かでよかったですが、女の子だけの少人数だとちょっと怖いかもですね。とにかく、無事に下山できてよかったです。達成感!
とてもすがすがしい、良い山で、素晴らしい登山となりました。すっきりした気分です。感謝!
下山後、車まで御朱印長を取りに戻り、椿大神社に参拝しました。
3時半ぐらいだったでしょうか。この時期なので、すでに夕方の空気。いつも、午前中に来るので、ここに夕方の来たのは初めてです。全く違う雰囲気で、また素敵でした。
まず、入り口前にある庚龍神社でお参り
境内の御船磐座に参拝。
本殿の方へ参道を進みます。
参道の途中にある大黒様と恵比須様
参道の途中、右側に、別宮椿岸神社へと参道は分かれます。椿岸神社には、提灯がともされていて、とてもなまめかしい雰囲気でした。夕方も良いですね。
そこでは曲がらずに、本殿の方へ向かいます。
途中には高山土公神陵。
そして、地球のような球の上に猿田彦神らしき神の乗った像。
簡単に参拝させていただきました。
そして、椿大神社の本殿で参拝
柔らかな夕日に包まれて綺麗。
御朱印の受付をしてもらって、書いてもらっている間に、さっと、別宮椿岸神社で参拝。猿田彦大神の妻、天之鈿女命が祭られている神社です。とても女性らしい柔らかな雰囲気の神社。夕方で提灯の明かりが映えて、いつもにも増してなまめかしい。芸能の神様でもあるので、とてもご縁を感じる神様です。
中も明かりがついていて、美しかったです。
横にあるかなえ滝
いつものように、ごうごうと水が流れていました。井戸谷コースの沢の水は、椿大神社境内まで続いているらしいので、そこから流れてくるのかな。
いつもは、もっと境内を回るのですが、今回はここまでで戻りました。
最後に、駐車場近くにある縣主神社とそのお隣の神社に参拝。
登山であちこち傷む体を癒しに、アクアイグニス片岡温泉に入ってから帰ることにしました。
ここの温泉は初めて入りましたが、綺麗で使いやすくて良かったです。一回600円。
天然温泉で極楽極楽!3種類の露天風呂もありましたよ。気持ちよい~。
固まった筋肉もほぐせました。
出てきたら、すっかり夜。
煌々と輝く月も登ってきました。
月に見守られながら、高速道路を通って、無事に家に帰りつきました。
大満足の一日でした。
また、機会があれば登りたいものです。違うコースも試してみたいものです。今回は、登りもくだりも初心者向けコースだそう。初心者にとっては、適度に大変で、でも大変過ぎず、達成感もあり、なかなか良かったです。ご神体の山に登らせていただけて、感謝です。
長々と読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
天河神社とその周辺へ超特急の旅(2)~天川村と丹生川上神社下社編
いつも読んでくださってありがとうございます。
前回に引き続き、天河神社とその周辺への超特急の旅の続きです。
前回は、天河神社とその周辺での出来事を書きました。
これまで、天河神社では、公共交通機関で行っていました。あのあたりは、交通の便が悪く、天河神社周辺の徒歩圏内を回るのみで、近郊の観光をしたことがありませんでした。今回は、友人の車で行ったので、少し観光をすることができました。
天河神社で心洗われた後、車で洞川温泉の方へ行きました。思っていたより遠くてびっくり。天川村って、とても広いのですね。
洞川温泉辺りの景色の写真を撮り忘れたのですが、狭い道路の両脇に、古い、雰囲気のある建物の旅館やお店が立ち並ぶ、温泉街。なかなか風情がありました。
鍾乳洞を見ようということになり、五代松鍾乳洞へ。名水、ごろごろ水のすぐ近くにあります。ごろごろ水は、私は初めて知ったのですが、自然に湧き出ているカルシウム分を含んだ弱アルカリ性の水(軟水)なのだそう。たくさんの人が、すごい数のボトルや水入れを持って、水を汲みに来ていました。トラックいっぱいという人もざらにいました。万病に効くと信じられているとのこと。私も、少し汲んで飲んでみましたが、おいしい!水をくむための駐車場は有料ですが、水は無料。駐車場に入ると一台ごとの駐車場の脇に蛇口があって、そこで心置きなく汲むことができるシステムになっています。こういう自然の恵みを頂けるのはありがたいですね。
さて、五代松鍾乳洞です。ごだいまつではなく、「ごようまつ」と読むそう。この鍾乳洞を発見された方の名前だそうです。ちょうど、昼頃についたのですが、お昼休みの間は、鍾乳洞に入れないとのこと。そこから、昔風のトロッコ電車に乗って鍾乳洞まで行けるのですが、午後からのトロッコ電車を予約してお昼ご飯を食べに行きました。(もちろん、歩いてでも鍾乳洞までたどり着けますが、かなりの急な坂です。)
この鍾乳洞は、たぶん地元のおじちゃん、おばちゃんが管理していらして、とてもゆるい感じ。まるでジャワのよう。トロッコの時間も、早めてくれたり、鍾乳洞の出入りも、いろんな面でゆる~い感じで管理されています。
それにしても、トロッコ電車には驚きました。
運転手が乗ると、お客さんは4人。でも、脇にちょこんと乗ってしまえば、6人まで乗れるとのこと。料金は、登り300円、下り200円です。ヘルメットをかぶって乗ります。
一本のレールが通っていて、そこをトロッコ電車が登っていきます。
最大斜度34.5度という、かなりの急な坂を電車は登っていきます。ありえない斜度。楽しい~。
周りの景色はこんな感じです。
なんだか素敵な感じですね。おとぎ話のよう。
鍾乳洞の入り口近くで、トロッコ電車を降りました。私たちが午後の最初のお客さんだったので、次のお客さんのために、トロッコ電車を戻さなければならないのですが、エンジンをかけて、だれも乗らずに、自動でトロッコ電車を戻したのにはちょっとびっくりしました。そして、鍾乳洞の入口へ向かいます。ちなみに入場料は400円。
そして、ここが鍾乳洞へ入り口。鍵かかかっていて、トロッコ電車を運転してくれたおじさんが、鍵を開けて案内してくれます。
中に入ると、中は狭くて天井が低いところが、少し続きます。けっこう頭をぶつけたので、ヘルメットをがぶる意味が良く分かりました。けっこうな、探検気分です♪
すぐに、少し広いところに出ます。人の下半身のようにも見える鍾乳石が。
こちらは、まだ一本の柱になっていない鍾乳石。上下がくっつくのに、まだまだ数百年かかりそう。
こんな鍾乳石も
象の顔のような鍾乳石。象の耳と鼻のようにも見えます。
次は、子育観音と名付けられた鍾乳石。子供を抱いている観音様のように見えます。
雲龍の柱と名付けられた鍾乳石
他にも、鍾乳石が続きます。
洞窟の一番奥には、不動明王らしい像が置かれていました。
そして、役行者と名付けられた鍾乳石
そして、洞窟の出口近くには、鷲の大鍾乳石が。
鷲が頭を下にしているように見えますね。天井には翼が広がっているように見えました。
天井には蝙蝠くんもいましたよ。
15~20分ぐらいの探索だったでしょうか。洞窟内は、狭い場所も多く、登りもあり、滑るところもありましたが、冒険気分で楽しめました。出来上がるまで長大な時間のかかる鍾乳石を堪能させていただけて、ラッキーでした!
出たところには、小さなお社が
そして、またトロッコで下まで戻ります。
ちなみに、上のトロッコ駅はこんな感じ。
くだりは、後ろ向きで下るのですが、かなり急なので怖いぐらい。
この日は、夜に大阪でジャワ舞踊練習会の予定だったので、夕方には大阪に戻っていなければならず、五代松鍾乳洞観光の後は、温泉はあきらめて、帰途につくことにしました。でも、帰り道で、以前から興味があった丹生川上神社下社に寄ることに。
道中、洞川温泉辺りでは、道路わきで少し紅葉している場所もありました。
残念ながら、社殿は工事中で良く見えません。
写真では分かりにくいかもしれませんが、上の方まで屋根が続いているのが分かります。変わった造りです。
御由緒です。
この闇龗神さまに興味があったのです。別名高龗神さま。家から一番近いお社に祭られているのが、高龗神さまで、しょっちゅうお参りしています。でも、どんな神さまなのかよくわからなくて。水に関連する神様ということは知っていたのですが。
社殿の前でお参りしました。とても良い雰囲気。古い、奥ゆかしい、雅な雰囲気がしました。
隣にはご神木の欅の木が。
そして、神社内にはこんな木もありましたよ。
社務所で御朱印を頂き、対応してくださった若い方に、いろいろお話を伺いました。
まず、丹生は「にう」と読むのだそう。初めて知りました。丹生川上神社には、上社、中社、下社がありますが、実は下社が一番古く、白鳳年間に作られたのだそう。応仁の乱の時のごたごたで、一時期どこにあるのは分からなくなったそうですが、その後、発見されて、今に至るらしいです。水の神様が祭られていますね。それで、境内には、黒い馬と白い馬が飼われていました。両方とも雄でした。黒い馬は雨を降らせ、白い馬は雨を止めるのだそう。6年ほど前に、600年ぶりにこの神社で馬を飼い始めたそうです。そういえば、うちの近所の高龗社でも、昭和の初めごろまでは、飾りをつけた馬を社に奉納する行事があったそう。そんなところにも、つながりを感じて興味深かったです。
社務所に、本殿の中の写真がありました。その写真の写真を撮ってみました。
素敵ですね。6月1日の大祭では、一般人でも入れるそう。今工事中の本殿は、来年5月中には完成して、来年6月1日にはお披露目になるそう。また訪問して、本殿を見たいなぁと思います。楽しみです。
丹生川上神社下社を後にして、大阪へ帰途につきました。とても楽しく、充実した、夢のような旅でした。運転して連れて行ってくれた友人に感謝!
帰りに工事渋滞などがあり、結局帰り着いたのはぎりぎり。ふたりで、結構フラフラでジャワ舞踊練習会に行きましたよ。でも、それも楽しです。踊り始めると、また別のエネルギーがわいてくるものですね。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
天河神社とその周辺へ超特急の旅(1)~天河神社編
いつも読んで下さってありがとうございます。
10月21日、滞在していた大阪から、友人と、天河神社へ行ってきました。友人がお礼参りに行きたいということで、前々から計画していたものです。滞在時間は短かったですが、とても楽しく、心洗われる旅でした。
天河神社は、今年、縁があって何度か行っていますが、行くとなると、やはりワクワクします。
朝、頑張って起きて、4時15分ごろ、大阪の北部を、友人が運転する車で出発しました。途中でコンビニに寄ったりしましたが、ちょうど2時間ほどで、天河大辨財天社に着きました。やはり、大阪からは近いですね〜。
早朝で、とっても寒かったです。吐く息が白い!気温は5度ぐらいだったのでしょうか。
なぜ、そんなに朝早く行ったのかといえば、6時45分ごろから始まる朝拝に参加したかったから。朝拝は、朝の神様へのご挨拶のようなものでしょうか。すがすがしい朝の空気の中、神職の方や巫女さんが、供え物をささげ、神職の方が進められる儀式の中で、大祓詞を一緒に読むこともできます。神職の方が唱えられる祝詞も気持ちが良いです。あとは、辨財天のご真言や役行者のご真言を一緒に唱えます。以前、般若心経も読んだ時もあったので、その時によって、少しずつメニューが違うのかなと思います。朝拝はとにかく、とても気持ちが良いです。今回も、朝拝に参加できて満足。早起きしたかいがありました。
その後、周辺を散策。早朝は靄がかかっていましたが、とても気持ちのよい秋晴れになり、とても美しかったです。
柿坂宮司さまの先祖代々の墓地があると聞いている場所から、聖天社に、前回はなかった小さな橋が架かっていました。
その橋を渡ってみようと思い、墓地がある方の丘に登ってみました。山々にかかる靄と青空、早朝のみずみずしい太陽光があいまって、とても美しい景色を堪能しました。
残念ながら、橋は渡れずに、そこから降りましたが、良い景色が見れてラッキーでした。
そして、聖天社のある向かい側の丘に登りました。
ちなみに、聖天社の方から見た橋は、こんな感じでした。
近いうちに、渡れるようになるのでしょうかね。
そして、聖天様にお参り
そして、その奥の坂道を登りました。途中に素敵な植物が、あちこちに生えていました。
途中、木が折れて、道をふさいでいる場所も。台風で折れたのでしょうか。
開けた場所からは、とても良い景色が見れます。
そこから奥の林の方に行ってみました。船岡神社跡ということですけれども、特に何も跡がないようでした。でもとても気持ちのよい林です。
こんなかわいらしい苔もありました。
すがすがしい空気と自然、朝日を堪能して下りてきました。
そして、坪内の大銀杏の木を見に、天河神社門前の来迎院へ。
大銀杏は、紅葉にはちょっと早かったですが、やはり美しい。
銀杏も実っていました。
そして、山の神社と韋駄天社へ
この辺りも、とても気持ちが良い。
そして、禊殿の方に向かいました。
やはり、飾りが気になる。
そして、六角岩の方へ。
この辺りは工事中で、かなり景色が変わっていてびっくり。写真には撮っていないですが、禊場の方から流れてくる川の幅が狭くなっていました。そして、河原に下りられるようになっていたので、まだガタガタの石の上を通って、六角岩の比較的近くまで行きました。
紅葉にはまだ少し早かったですが、水面に色の変わり始めた木々が映り、とても美しい。
そこから、元伊勢の方へ。登っていく道のススキが綺麗です。
ずっと工事中ですが、だんだん整備されていっている感じ。
元伊勢にある岩。この後ろの渓谷にいつも引き込まれそうな気がします。
この岩の前に植えられているのは、このブログでもご紹介した、今年の秋分の日に、新宿で行われたご神事で使われた榊の木。お焚き上げされるという話だったのですが、ここに再度植えられて、まだ生きているのがうれしいです。
反対側の岩
元伊勢から降りて、禊場の方へ。
そして、その少し奥へ
禊殿まで戻り、朝日のまぶしい禊殿の辺りを後にします。
途中、鮮やかな紫色の実をたくさんつけた、素敵な紫式部の木に出会いました。
神社に戻る途中、南朝御所跡にも少し寄りました。
友人はお礼参り、私は、せっかくここまで来たので、来月の東京でのジャワ舞踊、ブドヨ公演の成功を御祈祷していただきました。2人してジャワ芸能関連のご祈祷で、神職の方もちょっと驚いたかも。
昇殿参拝は、本殿の階段の真ん中あたりに置かれた椅子に座って、ご祈祷を受け、その後、上まで昇殿して、玉串奉奠します。
本殿は今回撮影しなかったので、7月の時の写真ですが、こんな感じになっています。
やはり、昇殿すると別世界。キリっとする感じがしますし、温かみも感じます。
6月に本殿に対面する形である能舞台で、夜に瞑想させていただいた時に、柔らかな衣装と物腰の温かい方が、本殿の方から私の右横にふわっと来られた感じが何となくして、弁天様かなぁと思ったのですが、今回は同じような温かな雰囲気で、その時のことを思い出していました。私ははっきりビジョンが見えるとか、何か聞こえるということは、全くないので、なんとなく雰囲気を感じ取るだけで、それに自分で勝手に解釈するだけなのですけれどもね。でも、包まれるような温かさですね。不思議ですね。だからと言って、どうということではなく、そんなことは重要ではないのですが、とても良いエネルギーを感じる、気持ちのよい場所です。
参拝の後、なんだかとてもすっきりしました。気持ちも体もとても軽くなったよう。昇殿参拝できて、とても良かったです。そして、縁あって再度ここに来れて、とても嬉しかったです。
それにしても、天河神社周辺は、何とも言えず、気持ちのよい場所です。この後、同じ天川村の洞川温泉の方へ行ったのですが、全く雰囲気が違うのですよね。天河神社周辺の柔らかさと気持ちの良さは、特別に感じます。
この後の、洞川温泉辺りのお話は、また続きを書きますね。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。