お礼参りに神社へ(1)
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年末ですね。
神社へお礼参りへ行く機会に恵まれました。
29日は墓参りの予定があり、30日は雨予報だったので、天気の良かった28日に。
いつも、一番近くに、比較的近年できたお社、高龗社に参拝。
もともと、丘の上にあったそうですが、宅地開発で、今の住宅地の真ん中に移動になったそう。近いので、普段から散歩ついでにお参りしたりしています。
すでに、角松が用意されていました。
葉ボタンがでかい!
そこから歩いて、澁川神社へ
手水場で清めて
白い玉砂利が敷かれた忌明社で、祓い清め
拝殿でお参りします。
その後、本殿の周りをぐるっと回るのが私の習慣になっています。
周りにもお社が
まず、神明社と八剣社があります。
澁川神社は、確か火災で焼失していて、11年前に再建されています。
木々も大きくなってきているようです。
拝殿の後ろの本殿
熊野社と八幡社
そしてお稲荷さんへ行く途中に津島社があります。
そして、澁川稲荷さんでお参り
今年一年のお礼参りをしてすっきり!
いろいろあったけど、よい年だったと思う。
恵まれているなぁと思います。
感謝あるのみ。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
東ジャワのクディリの聖なる洞窟でのフェスティバル(2019年10月の話です)
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
Pak Praptoの訃報と思い出の記事を書いていて、そういえば、彼のお誘いで参加した最後の、東ジャワのクディリの聖なる洞窟で行われたフェスティバルについて、記事にしていなかったなぁと思いだしました。
実は、ジャワに滞在していた、8月末から10月末のあの2ヶ月弱、仕事の合間に、ありがたいことに、とてもたくさん、いろんな場所で踊らせていただいていたのですが、全然書いていませんでした。
思い立ったので、まず、クディリでのフェスティバルについて少し書いておきたいなと思います。
前記事にも書きましたが、Pak Praptoに9月末にばったりお会いし、その時にこのフェスティバルで踊らないかとお誘いいただき、二つ返事で引き受けました。
実は、日程が帰国の2~3日前だったので、一瞬迷ったのですけれどもね…。でも、仕事が休みの土日でしたし、こんなよい機会はないので。それにやはりPak Praptoにお誘いいただけたのがうれしくて。
東ジャワ発祥の物語、パンジー物語がテーマのフェスティバル。
パンジー物語と言えば、ソロ(スラカルタ)の舞踊では、トペン(仮面舞踊)
10月初めにPak Praptoと打ち合わせした時は、トペンでパンジーを踊ってほしいとの要請が。ただ、私のパンジーの面は日本に持ち帰ってあり、ジャワに置いてあったのは、グヌンサリの面。
たまたま去年ぐらいに新たに作ったグヌンサリの面がソロに置いてあったので、その面のデビュー。まあ、パンジーの親戚(奥さんのスカルタジの兄弟?)ということで、グヌンサリでも良いでしょうと。それで、トペン・グヌンサリを踊ることに。
以前はよく踊った演目の内のひとつですが、久々だし、新しい面なので、フェスティバルの数日前には、仕事が終わった後、夜にビデオを撮りながら練習。私は公演前は確認のために必ず練習のビデオを撮るようにしています。踊りが思いがけず、独りよがりになっていたり、自分のイメージとずれていることもあるので。独りよがりの踊りほど見にくいものはないと、私は感じるのです。特に面は一つ一つに個性があって、面によって、その面を活かすための顔の角度が変わってくるので、私にとっては確認が必須。
最初は、「何じゃこりゃ」という感じだったけど、修正を加えて2回目は、まあまあの出来だったのでちょっとホッとしました。実は、私は面が大好きで、グヌンサリの面もいくつも持っているのですが、この新しい面は、前の面と全然感覚が違う。目の位置や大きさが多少違うからでしょうかね。まだ慣れないのでフラつくけど、なかなか良い面だと思いました。
ジャワの仮面をつけての舞踊は、かなり視界が遮られるので、本当にバランスが取りづらい。おまけに、ソロ(スラカルタ)の仮面舞踊は、最初は仮面をつけずに出てきて、仮面を口でくわえて踊り、最後に仮面を外すのです。なかなか大変。でも、私は仮面舞踊が好きなんですよね。
さて、フェスティバルは、
東ジャワのクディリにあるSelomangleng洞窟にて
Pagelaran Seni Budaya Selomangleng
Majestic Panji Sekartaji
というイベントでした。
前日、ソロから電車でクディリ入りしました。同行者は、Pak Praptoのアシスタントの女性(とても明るく感じの良い方で、私はとても好きになりました)と、ソロからの出演者の皆さん、電車の中で、ジョグジャカルタからの出演者の方々にもお会いしました。
でも、Pak Praptoは、直前まで3か月滞在していたヨーロッパでの無理がたたってドクターストップがかかり、いらっしゃることができなかったのですよね。こういうフェスティバルが大好きな方だということで、とてもいらっしゃりたかったでしょうね。
私にとってもとても残念でした。
クディリまでは、電車で4時間ぐらいだったでしょうか。快適な電車の旅でした。
クディリ駅へは、実行委員の方々が迎えに来てくれ、まず、ランチにクディリのRawonという料理をご馳走に。
クロス・ジェンダーのパフォーマンスでとても有名な、ジョグジャカルタのDidik Nini Thowokさんも一緒でした。彼は、世界中の舞踊を学んでいて、日本の能などにも造詣が深い。日本へも公演のためによくいらっしゃっています。
私も何度かお会いして、お話ししたことがあるのですが、覚えていてくださいました。
そして、フェスティバルの会場へ。
このSelomangleng洞窟は、クディリ王国の君主で高名なアイルランガ王(西暦991年出生~1049年死去とされる)の娘、デウィ・キリスチが瞑想していた場所であるということ。
その日は、場当たりや、翌日の流れの打合せをしました。
踊る場所は洞窟前(下)の地面なので、石ころだらけでガタガタ。まあ、ジャワではよくあること。仕方がないですね。
Pak Praptoがソロでの打ち合わせの時に、「君が、洞窟の中から、ゆったりと(人物になりきって)出てきて踊ったら、わぁ~という感じになると思う。とても良いと思うんだよ」と言っていたので、それをやってみたかったのですが、かなり急で滑ることもあり、危ないし、衣装を着ては無理だろうと、断念。
洞窟はアイルランガ博物館の敷地内にあるのですが、博物館の建物の横には、何と、私の好きな聖天(ガネーシャ)さまらしき像が!
そして、弁天(サラスヴァティ)様らしき像も!
その晩は、クディリのホテルで宿泊。Pak Praptoのアシスタントのルトノさんと同室。
時間が結構あったので、近くのカフェに行って、しばしまったり。
最近、ジャワではコーヒーブームで、カフェに事欠かない。
フェスティバル当日は、早朝から準備して、朝行われた儀式に参加しました。
地元の中華系演者によるバロンサイも行われていました。
そして、クディリ市長の挨拶
市長の等の挨拶の後、白装束の神官の方(ヒンドゥー教か?)の後をついて、洞窟前に置かれた像のところまで歩きます。
その像は、上半身の部分が無くなっていましたが、重要なものなのでしょう。その像の前に置かれた石のコーナーの中では、公演時に踊らないように言われましたから。
でも儀式の時は、その石のコーナーの中で座り、像に向かって神官が祈りをささげています。そして、水を跳ね上げて清めています。私たちの方にも水をとばしてくれました。バリで見た感じに似ているかも。
それにしても暑かった!!
その儀式や諸々の挨拶の後は、すぐに、Didikさんの踊りが始まったけれども、観客が多すぎて、衣装を着たまま見るのは大変そうだったので、あきらめて控室に戻り、急いで着た衣装を直し、冷房のある部屋で涼むことに。
その後、予定は押しに押して、私は12時ぐらいには踊る予定だったが、結局踊ったのは、2時過ぎだったような気がする。朝から衣装を着けていたので、なかなか疲れました。
地面はぼこぼこで、小石もたくさん落ちていて、ところどころ段差もあり、なかなか踊りづらく、おまけに面をつけているので、視界がとても狭い。(というか、ほとんど見えない。)
それでも、それなりに工夫して踊りました。こういう、とても踊りにくい場所で踊ることは、ジャワでは日常茶飯事なので、「まあしょうがないな」とぐらいしか思わない。誰も文句はいなわいし、みんな工夫して表現する。
幸いなことに、その時間には、地面に影が出来ている場所もあり、その辺りを中心に踊りました。日が照っている場所の地面は白っぽいコンクリートとはいえ、はだしで踊るにはとても熱い。
それでも、風を感じ、地面を感じ、木々を感じ、周りの人々を感じながら踊っている時は、とても楽しかったです。
では、私が踊っている時の写真をご紹介
そして、やはり、パンジー物語発祥の地の東ジャワでこの踊りを踊るのは、やはり感慨深い、というか、ちょっと感覚が違うような気がする。場所の雰囲気が違うのですよね。
以前クディリに来た時にも、ちょっと感じたことだけれども、やはり、文化の香りが中部ジャワとは違うというか。
イベント自体は、音楽あり、シアターあり、踊りありだったけれども、私はどちらかと言えば後の方だったので、結局、一部しか見れませんでした。まあ、自分が出演しているので仕方ないですね。でも、多くの人と知り合えたのは、とても嬉しかったです。
私の似顔絵を描いてきてくれた方も。
私の写真をインターネットで探して、それをもとに描いてくれたようです。
また、絵描きの方々と知り合い、彼らがいつも集まっているRumah Panjiという場所を見せていただきました。素敵な絵画もたくさん!
このGoa Selomangleng は、Museum Airlanggaという美術館の広大な構内にあるのですが、その隣には、Pura Penatalan Agung Kirisuciというヒンドゥー寺院も。時間もなく、門も閉まっていたので、あいにく入れませんでしたが、なかなか面白そうな場所。
ソロへ戻る電車は夜遅かったので、いったんホテルに戻ってシャワーを浴び、寝ました。
ホテルの近所のカフェに寄ってまったりする時間もありました。
クディリは、仕事で何度か来たことがありましたが、それ以外では今回が初めて。
以前から、この辺りの文化に興味が湧いていたのですが、ますますもっと知りたいを思うようになりました。
こんな素敵な経験をさせていただけて、感謝でいっぱいです。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
訃報と思い出 ~ Pak Prapto
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
今朝、母の墓参りに行き、その後、椿大神社へお礼参りに行く途中、ジャワでお世話になった方の訃報が入ってきました。
また会えると思っていたので、とても驚き、そして悲しい。
Suprapto Suryodarmoさん
私は、Pak Praptoと呼んでいました。
74歳だったそう。
ソロを始め、世界中の踊り手や音楽家、その他の方々に大きな影響を与えた人物、踊り手。
そして、私には大きな愛を持った人物に見えました。
慈愛と言った方がよいですかね。
私は、たぶん最初に会ったのは、2003年に留学し始めた直後だと思います。
その当時のことはあまり覚えていないのですが、彼の家であり、パフォーマンスも多く行われた素敵な場所、ルマ・プティへ様々なパフォーマンスなどを行ったときなどに、時々、お会いして、挨拶する程度でした。
また、その頃の、ソロの芸術大学で見かけるコンテンポラリーダンスの作品は、彼の作品に似通ったものがすごく多くて、とても影響の強い人なんだなぁと思っていたことを覚えています。
そして、私がソロで住んでいた貸家の隣家にも、よく、ヨーロッパの方々(多くはドイツ人だったと思います)が、Pak Praptoのところに来るためだけにやってきて、数ヶ月も滞在していました。詳しいことは聞かなかったので分かりませんが、Pak Prapto のもとで瞑想などをしていたようです。
彼はスピリチュアルリーダーでもあるのだなぁと思ったものです。
Pak Praptoと再び縁ができたのは、私がムラピ山の村、Tutup Ngisorへ行くようになってから。
そこで何度もご一緒させていただきました。
同じ家に泊めていただいていたので、いろいろお話ししたものです。
「日本人で、僕と怖がらずに話すのは君だけだよ」と何度も言われたのを覚えています。
「え~。そんなことはないでしょう」と返したのですが、あまり日本人と、親しく長く話したことはないそうで。(そんなことはないと思うのですが、なぜかそう言っていらした…。)
Pak Praptoの周りにいつもたくさんの人がいて、外国人も多いのを見ていましたし、私にとっては全く怖い人ではなく、親しくお話しさせていただいていたので、とても意外に思ったのを覚えています。
私は、アメリカにいた時の癖で、どんな人に対峙しても、へりくだることも持ち上げることもなく、平等な、対等な人間として接するからでしょうかね。まあ、相手にもよりますが、Pak Praptoは、それを受け入れてくれる人でしたから。
他のフェスティバルやアートイベントでも、結構ばったりお会いすることも多かったです。
また、一緒に飛び入りで、即興で踊ったことも何度かありました。
(昔取った杵柄で、私も即興で踊ることは好きですから…。)
そして、とてもスピリチュアルな方。
彼の踊りは、いつも祈りでした。
彼が踊ると、そこは祈りの場に変わりました。
また、私の尊敬するジャワ舞踊の大御所で、このブログでも以前ご紹介した、ダルヨノ先生も、「Pak Praptoは、本当にすごい。彼から学ぶべきだ。」と言っていたのが、とても印象に残っています。
私は、彼に学んだことがあるわけではなく、たまにあって話す程度でしたが、それでも、とても良くしていただきました。
彼が関係しているフェスティバルなどに何度も誘ってもらい、踊らさせていただきました。
彼自身は、伝統的な踊りを踊ることはなかったですし、彼の周りも、コンテンポラリーや即興で踊る人たちが多かったですが、私が伝統的な踊りを踊ることをとても尊重してくれ、それを生かしてくれ、引き上げてくれる人でした。
本当に多くの人を引き上げてくれる人だったなぁと思います。
それで、彼を慕っている人たちが、世界中にたくさんいるのでしょうね。
私が最後に会ったのは、10月初め。
私は、彼の人となりがとても好きでしたし、以前、ジャワ人の世界観についてインタビューをさせていただいたこともあり、私がジャワへ行く時は、特に会う予定がなくても、よく連絡していました。6月末から7月にかけてジャワへ渡航した時も、「ジャワへ来ましたよ」と連絡したのですが、Pak Praptoからは、「いまヨーロッパに3か月来ていて、9月末までいないよ」と返事が。
ああ、会えないなぁと思っていたら、9月末に、たまたま見に行ったソロ市役所の広場でのあるコンサートで、ばったり会いました。彼は出演者だったのですが、コンサート前に客席に座っていらしたので、ひとしきりお話ししました。
なんだか、とっても嬉しかった。
その時に、10月半ば過ぎに、東ジャワのクディリの聖なる洞窟であるフェスティバルに出演しないかと誘っていただきました。日本に帰る直前でしたが、日程は土日でしたし、即答でOKしました。後日、そのフェスティバルの打合せのために、ウィスマセニという、ソロの芸術大学の隣にある、芸術家たちがたむろする場所で待ち合わせ、お会いしたのが最後になりました。
白いシャツに茶色のベスト、茶色のシルクハットのようなものをかぶっていたような記憶があります。とてもダンディな感じでした。
ダルヨノ先生はじめ、多くの芸術家もそこにたむろしていらして、「専門家たちの前で話すのは恥ずかしいからさぁ」と言いながら、カフェからプンドポの方に移動。そこで打ち合わせしました。
その時、打合せが終わるころ、なぜか、Pak Praptoが私の顔を覗き込むように、何かを確認するように、何度も、繰り返し、まじまじと見るのです。そんなこと、今までなかったので、「何か?」と聞くと、「君、本当にジャワ人になったねぇ」と。
「以前は、まだ日本人らしさが残っていたけれども、今は全然残っていない」と。
それは、誉め言葉と受け取り、それはそれで嬉しかったのですが、私は、実はPak Praptoは、別のことを言いたかったんじゃないかという気が、その時にしていたのですよね。
私を見て、何が見えたのだろうかと。私自身、ここ1~2年でどんどん変わってきているのを実感しているので、Pak Praptoは何を感じたのだろうかと。
まあ、すべては私の想像のストーリーですけれども。
最後に、カフェで、Pak Praptoが食べていたマンゴーを食べきれないからというので、横からつまんでいただき、そのマンゴーがとてもおいしかったのが印象に残っています。
さて、クディリでのフェスティバルは、久しぶりにPak Praptoとご一緒できると楽しみにしていたのですが、彼はいらっしゃれなかったのですよね。
もともと糖尿病を患っていらしたのですが、ヨーロッパに3か月いる間に食生活が乱れて、悪化したらしく、お医者さんから、今は遠出をしてはいけないと、ドクターストップがかかったということで。
とても残念でしたが、そのフェスティバルに参加したことは、私にとって、とても素晴らしい経験となり、多くの良い出会いがありました。
クディリからソロに戻った後、お礼とお見舞いのWhatsApp (WA、日本のlineのようなメッセージアプリ)を送りました。彼からの返信は、にっこりマークや、キスマーク、ハート、虹のマークなどを多用する、とてもかわいいもの。「こちらこそ、参加してくれて、とても感謝しているよ。僕は大丈夫、元気だよ」とのこと。
「私は日本に戻るけれども、また1月にジャワに来るから、その時に、会いましょう」という私のメッセージからのPak Praptoの返信は、
「じゃあ、また会う時まで」
でした。
11月の半ばにも、なぜかメッセンジャーの方に連絡が来て
「元気ですか~?」
「元気ですよ!」
という、軽いやり取りを交わしたばかり。
そして、最近も踊っていらしたようですし。
WAでは、その人が、最後に接続した時間が分かるのですが、先ほど見てみると、Pak Praptoが亡くなったとされる時間の30分ほど前まで、WAをチェックしていたよう。
そして、Facebookでも、昨晩、盛んにいろいろアップしていらしたので、本当に急に亡くなられたのだと思います。
亡くなられたのはとても寂しいですが、彼の愛は永遠に残っていますね。
そして、もう今は解放されて、自由に踊られていることでしょう。
今日、椿大神社へ参拝して、参道途中にある、高山土公陵や、その隣の地球の上に猿田彦さまが乗っている像のあたりで、なぜか「ああ、ここ、Pak Praptoの雰囲気」と思いました。
美しい木々と自然があり、光があり、愛があり、祈りがあり。
そういうものを大切にされていた方のような気がします。
Pak Prapto 安らかに。
そして、ありがとうございました。
そして
「じゃあ、また会う時まで」
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
大腸がん検診(大腸内視鏡検査)
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
今日は、大腸内視鏡検査を受けた時のことを書いてみようと思います。
あまり書くようなことではないかもしれないですが、参考になる人もいるかと思いまして…。
先日、市の健康診断の大腸がん検診の検便で引っかかり、大腸カメラでの検査を受けなければならなくなりました。
今年は、市の検診が受けられる期間中、ほとんど日本におらず、最後の3日間で急いで受けた検査。
それで引っかかり、そこで初めて、大腸ガン検診の検便って何を調べるんだろうと思って調べてみました。この検査って、便に血液が含まれるかどうか調べるんですね〜。恥ずかしながら、初めて知った…。
あれ、でも、検査した日、2日間とも、思いっきり生理だった!引っかかったのは2回中1回分だけだけど。
それで調べてみると、生理中は検便しないほうがよいらしい…。初めて知った~!
成人してから、ほとんど日本にいなかったから知らなかった〜と言い訳してみる。
それに、生理中は検便してはいけないと、注意されたこともないですし…。(そんなこと常識だと言わないで~。)
そんなわけで、引っかかったけれども、たぶん生理の血が混じったのだろうなぁと思っていました。
でも、検診で引っかかると、どんな理由があるにせよ、必ず精密検査を受けなければいけないんですね~。
仕方がない。
それに、私は薬を飲むほどではないけれども糖尿病で、糖尿病の人はがんになる確率が、そうでない人よりも高く、また、最近、女性の大腸がんが増えてきたと聞いていたので、よい機会だと思い、精密検査を受けることにしました。
私がいつも糖尿病のコントロールのために通っている病院は、別の市にあるのですが、そこでは最近は胃カメラよりも大腸カメラの台数を増やし、また、ここの技師の技量が高く、早期がんの発見率も高いと聞いていたので、そこで検査を受けることにしました。確認すると、私の住んでいる市のほうに検査結果を送れば、別の市にある病院で検査を受けても構わないとのことでした。
ちなみにこの病院が大腸カメラの方に力を入れ始めたのは、やはり最近、大腸がんが増えているということと、胃がんはピロリ菌がいなければ発症しないということが分かってきたからだそうです。精度の高いピロリ菌検査(呼気か検便のピロリ菌検査が精度が高いらしい)が陰性で、胃カメラで異常がなければ、その後、10年は胃がん検査をしなくてもよいと言われました。
大腸がんは、お酒をよく飲む人はなりやすいようですが、最近は、40代女性で、お酒をあまり飲まない人でも、なぜか増えてきていると耳に挟みました。
さて、大腸カメラ
私は、周りで大腸カメラでの検査をした人もおらず、叔母が「知人からとても辛いと聞いた」と言っていたのをちらっと聞いたぐらいで、特に先入観もなく、まあ、大丈夫だろうと軽い気持ちでいました。
結論から言うと、大腸カメラ自体は、私にとって、特に辛いものではなかったです。痛みや違和感が多少あった程度。
まあ、私はそんなに羞恥心もないですし、へいちゃら…。
大腸カメラの前に、技師の方がいろいろ話をしてくれたのですが、人によっては、すごく辛く感じるらしいです。特に男性は痛がってうるさいぐらいに騒ぐ人も多いとか。
でも、私は平気でした。
ただ、私にとっては、準備段階がちょっと辛かったかなぁ。
下痢でトイレとお友達になれます(笑)
まず、準備では、
検査の4日前の晩からアローゼンという、小袋に入った顆粒状の下剤を2袋飲む。
説明書きによると、8時間から12時間後に効いてくるらしい。
その次の日は特に問題なかった。排便は普段より少し多いくらいで普通。
それで検査3日前の晩もアローゼンを2袋飲む。
次の日、下痢で大変だった。
午前中は、トイレから離れられないほどの下痢状態。ほとんど水分。
看護婦さんから説明を受けた時は、普段よりも1~2回便の量が多いようにアローゼンを1~2袋の間で調節するようにとのことだったので、検査2日前の晩は、アローゼンは1袋のみにする。
また、この3日間、毎日水分を1L 以上飲むようにとの指示が出ていた。
もしかしたら他に原因があるのかもしれないが、私は、アローゼンを飲むと、頭がくらくらしたり、軽い頭痛になったりしていた。とくに検査2日前は、頭痛がちょっとひどく、おまけに下痢もひどくて、あまり出かけられるような状態ではなかった。
でも家の中のことはできる程度でしたけれども。
幸い、その日は家に居られる日だったので、昼寝をしていました。
検査前日の朝にも、アローゼンを飲む。この時も1袋にしておいた。
この日は、前の晩の下剤の量を減らしたせいか、下痢もそれほどひどくない。
そして食事は検査食。
看護婦さんから説明を受けた時、市販の検査食を食べるか、自分でうどんなどを調理して食べるかと聞かれたので、楽な検査食にしておいた。
検査食はレトルトパウチに入ったとても消化の良い食事。
ちなみにこんな感じです。
こんな感じにレトルトパウチに入っています。
こんな感じで、昼食、夕食と続きます。おやつのすりおろしりんごもついていました。(パッケージの写真参照)
味は、結構おいしかったです。
ただ、硬い食べ物が好きで、たくさん食べるのが好きな私にとっては、物足りないなぁ。
そして、途中でお腹がすいたり、好きなように食べられないのも少し辛い。
でも、この量でも大丈夫なんだというのは、私にとって新たな発見。
普段は食べすぎなのかもしれませんね。
毎食事痔と毎食間(10時と15時)に200ml以上の水分を取るようにとの指示。
そして、夜8時ごろに、マグコロールという50gの粉の下剤と、ラキソベロンという目薬のような容器に入った液体の下剤を、150ml~200mlの水に混ぜて飲むようにとの指示。
粉の量が多くて大変。混ぜながら少しずつ飲んだが、まあまあおいしくて飲みやすかった。
でも、飲んだあと、少し気持ち悪くなった。
その夜、寝る前に何度もトイレに行ったが、幸いに寝ている間は一度トイレに起きただけ。でも、検査当日の朝は、何度トイレに行っても行き足りなく感じる。
朝にも、水かお茶を200ml以上飲むようにとの指示がある。
寒い時期ですし、なんだか水が飲みづらかったので、温かいお茶を飲む。
そして8時40分に病院へ到着。
いつものように血圧と体重を測って、検査を待つ。
看護婦さんに、下剤を飲み始めた後の、ここ数日間の日毎の排便の回数を書いた紙を渡し、最後の排便の色や形を聞かれる。ちょっと黄色っぽくて「ほとんど水分です」と答えると、それでよいのだということ。
そして、検査着に着替える。使い捨ての半ズボンは、不織布でできていて、後ろが紐で綴じられている。紐を引っ張ると外れるらしい。
着替えた個室には、専用のトイレがあり、そこで待っている間、何度もトイレに行きました。
検査しやすいように、浣腸をしてもらい、お尻にゼリー状のものを塗って、検査が始まる。
先生は二人がかり。
お医者さんと技師さんだったかな?
一人は、カメラを大腸に入れていく。
一人は、おなかのあちこちを押したりして、カメラを通りやすくする。そして、大腸を支えていたりする。(たぶん)
二人で「こっちに曲げたほうがよいんじゃないか」とか相談しながら、カメラを入れていっていた。
大腸の形は人それぞれらしく、いろんな方向に曲がっているそう。
私のものは、ちょっとひねくれていたらしい。もっとも、女性はそういう人が多いとか。
曲がりくねった大腸が、まっすぐになると、もう楽だそう。
大腸をまっすぐにすることなんてできるんだぁ、へ~とか話しながら、検査は進んでいく。
大腸は、こんなところまであるのかと思うほど、上の方までありました。
力が入るとカメラが入らなくなるので、目は開けていて、鼻から息を吸い、口からはくという呼吸をゆったりするように言われる。
最初は横向きに、そしてその後はあおむけに。
S字結腸の辺りがちょっと痛かったかな。
二箇所ぐらい。一箇所は、一瞬、結構痛かったかも。
けっこうひねくれて曲がっていたみたい。
痛かったら言ってくれということだったので、痛いと伝える。
そうすると、痛くないようにいろいろ対応してくれる。
そして、確か、カメラが小腸のところまで達すると、そこから抜きながら、確認していく。先端まで達するのに、それほど時間もかかりませんでした。図っていたわけではありませんが、5分あったかなぁという程度。そこまで達してしまえば、もう楽で、痛みもない。任せて、リラックスしていた方が楽です。お尻からたくさん水分は出てくるけれど、お医者さんたちも慣れているし、私もそんなものだと気にしない気にしない。
カメラを抜きながら腸壁を確認していく時は、私もモニター画面を見るように言われたので、一緒に見ていく。
良い機材を使っているらしく、とても鮮明に見える。
私にとっては、とっても興味深い!
たまに、まだ便が少し残っていたりするところでは、液体(生理食塩水?)や空気を入れて、洗浄しながら、丁寧に見ていく。
カメラには洗浄機能も付いている。すごい。
2日前に食べた、海藻らしきものが張り付いていてびっくり。
ひだひだのある大腸の中は、冒険のトンネルの中のよう。
ピンクっぽい肌色で綺麗。
なかなか見れるものではないから、本当に興味深い。
そして、驚いたのは、ちょっとストレスを感じたりして、力が入ると、大腸自体がまるで別の生き物のように、ひだひだが、一気にグーッと狭まってきて、通り道がふさがれてしまうこと。
モニターを見ていて、びっくりしました。
普段、何気なく、緊張したり、ストレスを感じたりすることで、こんなにも、大腸に影響があるんだなぁということを、目の当たりにしました。
普段リラックスして過ごしたいものだと、つくづく思いました。
だんだん抜いていって、最後は痔がないか確認して、検査は終わり。
結局、検査結果は問題なし!
よかった~!
先生に「もしかして、大腸がん検査した時生理中だった?」と聞かれ、三週間前に診察に行ったときに、そう伝えたじゃんと思いながら、「実は、そうだったんです…」と言うと、「え~、生理中に検便したんですか?」だって。
だって、ダメだって聞いたことなかったし、そんなこと知らないよ~。
まあ、私の住んでいる市内の病院で受けた検査で、この病院での検査ではなかったけれどさ。その辺り、検査を受ける人にちゃんと伝えてほしいものですよね。
大腸内視鏡検査が終わった後は、ちょっとおなかがだぼだぼで、ごろごろする。
そして着替えつつ、またしばらくトイレにこもる。
この病院には、大腸内視鏡検査後専用の、細かいところまで気配りされた着替えスペースのある広い個室トイレがあった。暖房もちゃんと効いていて快適。
無事に検査が終わり、大腸がんの嫌疑も無事晴れたので、意気揚々と家に帰る。
ちなみに、大腸カメラでの検査では、車を運転してきても大丈夫でした。
検査の後、午後から、カメラを入れた時に少し痛かった場所が、時折チクチク痛む。
でも、翌日は少し良くなっているよう。
ちなみに、3週間ほど前に検査の説明を受けた時、もし、内視鏡検査で小さなポリープなどが見つかったら切除、そしてその方法、大きなものは一部採取して検査するなどの説明、そして、検査の危険性などの説明があり、同意書にサインしました。稀ではあるけれども、全く危険性がないわけではないのですよね。まあ、なんでもそうですよね。
実は、検査後、1週間は遠出をしないように言われたので、ぎりぎりのこの日程を選んだのですよね。というか、私が1月いっぱいは、ほぼ日本にいないということで、先生がちょっと無理してこの日に入れてくれたのだと思います。1週間は遠出しないようにと言うのは、ポリープを切除した場合に備えてのようですけれども。まあ、1週間は何かあってもすぐに対応できるように、ということでしょうね。
とにかく、異常がなくて良かった。
これで晴れて新年を迎え、何の心配もなくジャワへ出張へ行けますね。
(もっとも、全然心配はしていなかったのですけど…。)
そして、お医者様からは、今後、3年ぐらい(来年、再来年ぐらい)は、検便もしなくてよいと言われました。
なので、2022年までは、もう大腸がん検診はしない!と思っています。
検査が無事終わり、午後からルンルンして寄せ植え用の植物を買いに行きました。
今回は、ちょっと繊細な話ではありますが、大腸内視鏡検査を受けた経験を書いてみました。
誰かの参考になればなと思います。
私にとっては、なかなか興味深い経験でした。
そして、いろんなありがたみを感じましたね。
糖尿病や緑内障があるとはいえ、概して健康で、何をするのもほぼ支障のない生活を送れていることのありがたさ。
私は糖尿病を食事と運動でコントロールしていますが、食事制限をしているとはいえ、概して好きなものをたくさん食べられるありがたさ。
病気の検査体制が充実していることのありがたさ。
などなど
そして、普段から健康に気を付けることは大事だなぁと、つくづく感じました。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
クリスマスに思うこと
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
世間は今夜、クリスマスイブですね~。
私自身は、今はクリスチャンではないので、キリスト教徒の友人や知り合いたちに、クリスマスのお祝いメッセージを送る以外、特に何もしないですが、華やかな時期ですね。イルミネーションも綺麗。
以前、アメリカに住んでいた時、縁あって、洗礼を受けて、クリスチャンだったこともあります。正教会(オーソドックス)です。ギリシャやアラブ諸国、エチオピア、ロシアなどは正教会が多いですよね。カトリックよりも古いキリスト教です。
正教会のクリスマスは、年によって日が変動すると聞いたことがありますが、アメリカの私が行っていた教会では、他のキリスト教と合わせて、12月25日にやっていましたね。その方がいろいろ好都合なのでしょうね。
ただし、イースターは、正教会独自の日程でやっていましたよ。キリスト教徒にとっては、クリスマスよりイースターの方が重要ですものね。
日本では、12月24日でクリスマスが終わってしまうような印象ですが、25日がクリスマス。アメリカでは、25日が本番。24日は、動物たちのクリスマスと言われていて、うちでも飼っていた犬たちにお祝いしてあげていました。
25日は教会へ行った後、家族や、近い友人家族たちと食事をしつつ、お祝い。
子供たちが、長々と、大量のプレゼントを開けるのに付き合い、ちょっと退屈~と思っていたことを思い出します。
サンディエゴに住んでいた時は、その後、大抵、海に行っていましたね。
90パーセント以上がイスラム教徒のジャワでも、キリスト教徒の人口は多く、クリスマスパーティーは、他の宗教を信仰している人たちも招かれて、あちこちで行われていました。クリスマスのお祝いのパーティは、クリスマスの後、1月いっぱいぐらいまで、いろいろ開かれていてびっくりした覚えがあります。1月にクリスマスパーティーでジャワ舞踊を踊ったことも何度かあります。一番覚えているのは、マンクヌガラン王宮で、現王の弟君がご存命の時に、彼はキリスト教徒だったので、王宮で盛大にクリスマスパーティを開き、そこで踊らせてもらったことです。確か1月の半ばだった。
クリスマスパーティでも、ジャワガムランにジャワ舞踊。なかなか良いですよね!
ジャワの教会では、実は、ジャワガムランを使ったり、ジャワの影絵芝居なども行われるところも結構あるのですよ。物語はキリスト関係のもので。
ジャワに、正教会はほとんどなく、カトリックとプロテスタントがほとんどだと思いますが、実は、正教会は布教をするときに、地元の文化を取り入れることを推奨したと聞いています。その土地の音楽や言葉で、礼拝をおこなうということです。そういうところ、正教会を気に行っていたのですけれども、でもやはりしっくりこず、アメリカを離れると同時に離れてしまいましたね。実は、私は中学からプロテスタント系の学校へ行っていたので、聖書の勉強などもかなりしたのですけれども。
でも、子供のころから、今は宗教の時代ではないという気がしていたのですよね。キリスト教も結局は囲い込みの面も多々ありましたから。どこから登っても頂上にはたどり着け、いろんな門、入口があってよいと思うのですが、これでなければいけないというような態度が、随所にみられるのに、ちょっと抵抗があって。
私も、結婚するときに元旦那が教会のクワイヤを指導、指揮をしていて、その、いろんな人間関係から、その教会で式を挙げた方が良いと思わなければ、洗礼は受けなかったかも。洗礼を受けなければ、教会で結婚式は挙げられませんからね。それでも、キリスト教は嫌いじゃなかったのですが、やはりぴんと来なかった。私には合わなかったのでしょうね。
ちょっと、話がずれましたね。
日本では、みんながしていることを、自分もしなきゃいけないような風潮が強くて、クリスマスでも、その辺りにとても違和感を感じます。
クリスチャンではない人に、メリークリスマスと言うことも、私が言われることも、私にとっては大きな違和感。成人してからほとんどの時間を海外で過ごしてきたからでしょうか。いつも、相手の宗教を考えて発言しますし、相手の宗教にずかずかと入り込まないように気を使っていましたから。宗教問題は繊細ですからね…。
本当はどっちでもいいのに、私の意識も頑なだわ〜。
まあ、日本では、こだわりなくなんでも取り入れて楽しむことは良いと思いますけれども、それが出来ない人たちが、出来ないことで悲しんだり、苦しむことがないようであればよいなと思います。
みんな違ってよいじゃないか!
起こることを、良いとか悪いとかジャッジ(判断、審判)せずに、そのまま受け入れて、楽しむしかない!
結局は、自分のジャッジがすべての幻想を創り出しているのだから。
私自身は、祝いたい気分だったら、一人でも祝い、家族や友人と一緒だったら、それを楽しみ、でも、特に何もやる気になれなかったら、何もせずに普段通りの感じですかね。
この日だけ楽しむのではなく、ジャワのように、1月に入ってしまっても、クリスマスにかこつけて、パーティするぐらいの感覚の柔らかさがあっても良いかも!
でも、このクリスマスという日が、人種や文化や考え方の違いや、恨みつらみを超えて、お互い思いやる日になればよいなぁと思っています。
クリスマスに思うことを、つらつらと書いてみました!
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
<今日の植物(家の植物シリーズ)>
東京にて
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
先週末、ジャワ舞踊の練習や、友人たちに会ったりするために、東京へ行ってきました。今回は少し久しぶりで2か月ぶり。
最近、バスで行く根性がないので、いつも新幹線で。ちなみに、エクスプレス予約で、21日前までに予約すると、時間帯によっては割引があるので、前もって予定が分かっており、時間に余裕がある時は、それを利用しています。確か、乗車する時間が朝6時台か、11時から15時台までは、枚数に限りはありますが、割引があると思います。
新幹線で東京へ行く時の楽しみのひとつは、何といっても富士山。見えない時も多いですが、見えると嬉しくなります。いつも激写します(笑)。
今回は、晴れではなかったですが、富士山がきれいに見えました!それも、とっても雰囲気のある絵画のような富士山。雪も増えていて、美しい~!雲のかかり方も絶妙。
そんなわけで、何枚か写真をアップしますね。
ああ~満足!
以前、一度頂上まで登ったことがある(それもなぜかキツイ御殿場口から登りました)のですが、またいつか登りたいですね。
あ、でも、以前は結婚前の元旦那と登って、いろんな思い出があるので、なんとなく心のつかえが…(苦笑)。いろんな感情が襲ってきて、それを否定するわけじゃないけど、まあ、それも良しかな~。ジャッジはしない!
それでも、富士山の姿は大好き!最高の山だな~と思う。
今回も見られてとってもラッキー
東京では、久しぶりの何人かの友人と、それぞれお茶を飲んだり、ご飯を食べたりできたのも、楽しかった。
そして、私の話や悩みを聞いてもらったり。
私をいつも泊めてくださる友人もいて。
友人ってありがたいものですね!
けっこう孤独感にさいなまれる私ですが、私のことを気にかけてくれる友人たちがいることは、本当にありがたいです。忘れないようにしたいです。
土曜日の夜は、東京のガムラングループ、ランバンサリの練習に飛び入り参加させてもらいました。いつも、快く迎えてくださって、ありがたいばかり。そして、大勢で練習するのは楽しい。
そして、日曜日のジャワ舞踊練習会。
今回は、たっぷり、ハードな、鬼のような、でもとても楽しい練習をしました。
休憩を入れて6時間以上。
私は、肩が治ってきたことがうれしくて、ガガ(男性荒型)の舞踊の練習を、最近家で少しずつ再開していたのですが、せっかく広い場所なので、早めに行って一人で、クロノという舞踊を練習させてもらいました。満足!
肩のせいで、去年の12月ごろから今年の夏過ぎぐらいまでは、満足に男性荒型の舞踊を踊ることができなかったので、また踊ることができるようになって本当にうれしいです。
それでも、やはり荒型はキツイ!
そして、その後、じわーっと足腰にくる女性舞踊をたっぷり。
来年、2月24日(月・祝)に、東京の洗足学園で、マンクヌガラン王宮の舞踊、ブドヨ・ブダマディウンを上演させていただくので、1回40分ほどのこの曲を、計3回半、練習。
その後も、マンクヌガラン王宮の舞踊、モンドロリニを3回、ゴレッ・ランバンサリを1回練習し、最後の締めは、スラカルタ様式の男性優型の舞踊、トペン・グヌンサリ。
「寒いし、雨降るだろうから、早めに終わろうか」と言っていたのですが、結局、楽しくなってしまって、会場を借りていた時間のぎりぎりまで練習しました。
幸せだわ。
でも、久々に完全に筋肉痛です(笑)
ちなみに、ジャワではこんなに練習する人たちはいないです。ジャワでは、基本的に疲れることはしない…。もっとゆるゆるな感じ。なので、日本人には物足りなく感じることもしばしば。
「まだ全然出来てないのに、ここで練習終わるの?明日、本番だよ」と思ったこともしばしば。
やはり、民族の、文化の違いなのですかね。日本人って真面目だな~と、いつも思います。
まあ、どちらが良いということでもないですけれども。
日本人ももっとゆるくなったほうが楽なのにと思うこともしばしばあるので。それに、ゆるさの感覚も、ジャワ芸能には大事。
でも、私自身、もっともっとうまくなりたくて、そして楽しくて、ガンガン練習してしまったりしますけれどもね。
でも、こうやって、舞踊も、ガムランも、一緒に練習してくださる方々がいることは、何とありがたいことか。そして、そのためにいろいろ手配してくださる方々がいることは、何と素晴らしいことか。
私は、地元ではだれも練習する相手がいないので、本当にこのありがたさが身に沁みます。
でも、地元にいないからこそ、東京や大阪へ、果てはジャワまでちょくちょく出かけていって、みんなと練習しようという気にもなるわけで、それはそれで良いかなと思っています。
みんなと一緒だと、楽しいですし、気力も体力も湧いてくる気がします。
地元では一人で練習しています。一人でも練習できるだけのことは、ジャワでキリがないほど仕入れてきていますし、一人で練習できることはたっぷりあるのですけれどもね。なかなか根気がいりますね…。
でも、仲間のありがたさも人一倍感じることができるかなと思っています。
私も、普段身近にあるものは、当たり前にあるような気がして、感謝も何もないですけれども、よく考えてみたら、すべてが奇跡的に在るものだなぁと思います。
ジャワで暮らしていると、水が止まったり、停電になったりすることがしばしばあり、挙句の果てにプロパンガスのガス漏れがいきなり起きることも何度かあったので、そのたびに、水や電気のあることのありがたさや、安全のありがたさが身に染みたものです。
こうして、太陽が毎日登り、空気や風や水や火や、私たちを生かしてくれているものに囲まれていて、安心して眠れる場所があり、十分な食べ物も着るものもあり、ありがたいですね~。家族にも感謝ですね。
なんだか、だらだらと思い付きで書きました。
今日はこんなところで。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
好きなことを伝える機会があることは楽しい
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
縁あって、1年と数ヶ月前から、月に2回ほどのペースで、ある場所にジャワガムランの演奏を教えに行っています。
仕事で日本にいない時期もあるので、その時は、他の先生に教えに行っていただいたりしながらも、ありがたいことに、続けさせていただいています。
ゆっくり、ゆっくり進んでいますが、今週から新しい曲。
今のグループにとって、ちょっとチャレンジングな曲で、でも難しすぎず、面白い曲をと思い、ラドラン・スマル・マントゥ(PL 6) という曲を選んでみました。スラカルタ様式のほう。私自身、あまり演奏する曲ではないのですが、教えてみると、やっぱり面白い!
一人で、たくさんの楽器のあるガムランを教えるのは、なかなか大変ですが、ガムラン経験者もいて、大変助けられています。私自身、先生としては未熟だなぁと自分でも思いますが、教えることで、私自身、たくさん学ばせてもらっています。
こういう機会をいただけることは、私にとって、本当に感謝しかないです。
そして、教えることは、結構好きかも、と思っています。楽しい!
思えば、2003年に最初にジャワに留学した時、アメリカから直接ジャワへ行き、アメリカへ戻る予定にしていました。そして、ジャワガムランが一人で指導できるように、多くのジャワガムランの楽器を(歌も含めて、ほぼすべての楽器を)まんべんなく学んだのでした。
私のアメリカでのジャワやバリの音楽の先生たちは、 すべての楽器が演奏できたし、踊りもできたので、それが当たり前で、そうなるべきだと疑いもしなかったこともあり、私は踊りも楽器も、一つに絞ることなく学んだのでした。
何より好きで楽しかったですし。もともと凝り性なのかも。
最初は留学は1年の予定で、期間が短いからと、個人レッスンもかなりの量をこなしていたのですが、結局、もっともっと学びたくなって、2年9か月いましたね。そしてその間、ずっと同じように走り続けた感じ。
そんなわけで、ジャワの芸術大学留学中の2年9か月ほどの多くの期間は、授業や市井のグループの練習に参加する他に、カラウィタン(ガムラン演奏)と舞踊を合わせて、一日2~3個人レッスン(4時間~6時間)はあたり前の毎日を続けたものでした。さすがに、踊りのレッスン3つやった日はへとへとだったので、なるべく、カラウィタンと踊りを混ぜるようにしていました。その頃は個人レッスン料もかなり安く(1レッスン3万~5万ルピアぐらい)、恵まれていましたね。
もちろん、かなり努力もしましたよ。大学の授業も、留学は3年弱だったとはいえ、その間ダブルで受講したりして、1年生から4年生の前期までの舞踊科とカラウィタン科の実技の授業は、(ジャワ以外の芸能の授業以外)すべて出ましたし、単位や学位をいただける立場ではなかったですが、外国人だからと甘く見てもらうこともなく、現地の子たちと同じように授業についていけるように準備をし、ちゃんとテストも受けていました。
カラウィタンの授業では、子供の頃から演奏している子たちに付いていくのは、かなり大変でしたけど、授業中に交代しながら演奏するのも、演奏できないと特定の楽器や歌うのを飛ばすことなく、授業で学ぶ全ての楽器や歌はできるように頑張りましたし。楽しかったのでね〜。
ジャワ舞踊も、アメリカに戻っていろいろ教えられるようにと、スラカルタ様式とマンクヌガラン様式の神聖な洗練された女性舞踊や、少しセクシーな女性、かわいらしい女性、恋する女性、勇敢な女性など様々な女性舞踊、かっこよく洗練された静かな男性舞踊(優型)や、荒々しい悪役の男性舞踊(荒型)、戦いの踊り、恋の踊り、チャキルやブリスロウォといった鬼系の踊りや猿の踊り、子供が学ぶ踊り、そして仮面舞踊に至るまで、習いつくした感があります。2週間ごとに新しい踊りを2~3曲学ぶペースでしたし。よくもやったものだと自分で感心したりして…。ほとんど気狂いですよね。
早く学べば良いというわけではないかもしれないけど、あの時の私には、それが一番良いペースだったと思います。私はたくさん学ぶことで、深くしていくのが合っているかなと思います。踊り込みは公演前にかなりしますしね。
衣装も舞踊団が作れるほどいろいろ揃えたものです。
まあ、教えられるようにというより、自分が好きなので、すべてやってみたのですけれどもね。いろんなキャラクターになりきって、踊り分けるのも楽しくて仕方がない。キャラクターを学ぶために、よくワヤンオランも見に行きました。
でもその間、人生いろいろ転換して、結局アメリカに戻ることはなくなり、予定はかなり狂いましたね。
日本に戻り、でも、その後もジャワといろいろ縁があって、多くの時間をジャワで過ごさせてもらいました。合計で10年ぐらいになるかも。
ジャワの芸術大学に留学していた時ほど集中して学ぶことは、その後ないですけれども、舞踊劇を学んだり、ジョグジャカルタにも縁ができて、ジョグジャカルタ様式の舞踊もゆるゆると学ぶこともできましたし、それ以前に学んだことも、少しずつ深めることができているなぁと思います。仕事や調査をしながらも、ジャワに長く生活して、呼吸をし、風土と文化を感じ、都会でも田舎でもいろんな人たちと出会い、上手い方たちと一緒に練習して、一緒に公演をし、多くの公演を見て、刺激を受けて、ジャワのフィーリングを自然に受け取ることができて。そう思うと、ありがたいばかりですね!感謝しかないです。
もともとプロのジャズ/モダンダンサーだったこともあり、ジャワ芸能でも、踊りはかなりやりましたが、カラウィタン(ガムラン音楽)の方は、一通りは出来ても、もう少しうまくなりたいものだと、最近つくづく感じています。ジャワ芸能をやっていると、どこまで行っても終わりはないですが、楽しみつつ進んでいきたいものです。
日本にいる時間も今は飛び飛びですし、今は、学んだことを誰かに伝えるということがあまり出来ていないのですが、日本で、ガムランも、そして踊りも、少しずつでも、私が好きで、学んできたことを伝えられる機会があることは、大変ありがたいです。
もっとこういう機会が増えると良いなぁ。
私が長い時間をかけて学んできたことに価値があると思ってくださる方もいることは、本当にうれしいことです。そして、ジャワ芸能を堪能するために、楽しむために、遠慮せずに、私をもっと利用してほしいです。
とはいえ、自分自身がその価値を一番よく知っているので、それだけでもよいのですけれどもね。でも、もし、私のやってきたことが、誰かの役に立つことがあれば、こんなに嬉しいことはないです。
考えてみたら、本格的に学び始めたのは2003年ですけど、最初にアメリカでジャワ芸能に出会ってからもう25年!びっくり!
ジャワ芸能から学べることはとても深い。そして、人生を豊かにします。もっと多くの人に、ジャワ芸能に触れていただけると良いなと思います。
私の住んでいる辺りでは、仲間がいないのがなかなか厳しいですが…。たまにめげそうになりますが、それでも、一人でも、場を清める気持ちで踊りの練習をしたり、カラウィタンの練習も続けていますよ。
もう少し、仲間を増やす努力をすればよいのでしょうがね。まだ、なかなか…。
何せ、自分の好きなように生きているので…。
慢心だけはせずに、これからも真摯に、でも楽しみつつ、愛を持って精進していきたいです。
まだまだ改善していきたいなぁというところたくさんあるし。楽しみ!
そして、みんなが仲良く集い、それぞれの能力を発揮でき、自由に芸術活動/創造活動ができ、それをたくさんの人に見てもらえる/伝えていける場を作れたら良いなぁと密かに(!?)考えています。
アメリカに戻ることがなくなって、その後、つい数年前までの長い期間、半分死んでいるような気持ちでいましたが、振り返ってみると、その間、多くのことを、一生懸命やって来て、楽しいこともたくさんあったなぁと思います。これで良かったのだと。
そう考えると、本当にすべては幻想ですね。
いろいろあって、必ずしも自分が思ったように物事が進んでいくわけではないけれども、大きな流れの中で生きているのだなぁという気がします。でも、大きな流れで見ると、やはり、すべては自分が創り出していると気付きます。
そして、何があっても大丈夫。
心配せずに、楽しみつつ目の前のことをこなしていきたいです。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
<散歩中の景色>