香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

母の思い出 ~ 私の歴史/記録(3)

先日は母の日でしたね。今日は、母の思い出を書こうと思います。

私の母は、私が20歳の時に亡くなっています。突然、亡くなったので、死に目にも会えませんでしたし、お別れもできず、後悔することもいろいろあります。あの頃、私は自分の事で忙しく、体調が悪かった母にやさしい言葉をかけるわけでもなく、手伝うでもなく、「体調が悪いのは、気の持ちようじゃない」という対応をしていたような記憶があります。今となっては、母がどのくらいの期間、どう体調が悪かったのか覚えていないのですが、徐々に悪くなって数ヶ月かなと思います。母はその直前まで、とても元気で活躍していたので、そのイメージが強くて、体調が悪くなるとは考えられなかったのです。また、体調が悪くなっても、家事は完ぺきにこなしていたので、大したことがないと私も思っていたのかもしれまん。母は、病気と言われるのがとても嫌いな人で、母もあまりそういう部分を私たちに見せないようにしていたと思います。また、私自身、ほとんど家にいませんでした。母に、「また出かけるの。たまには家にいたら」とよく言われたことを覚えています。私は自分の事で精いっぱいで、まだまだ子供だったのでしょう。最後に母の顔を見たのは、たぶん母が亡くなる2日前だと思います。私は出掛ける前で、鏡に向かっていて、ちょっと体調が悪いと言ったら、母が「大丈夫?」と言ってくれた鏡越しの顔を今でも覚えています。

私の母は、私が小さい頃はちょっと体調が悪かった時期もあったと、確か祖母から聞いていました。それで、小学校の作文で「母は以前体調が悪かったけれども、今は元気で活躍している」というようなことを書いたら、「私は体調が悪かったことなんてないわよ」と言われたので、自分が病気だとか、何か問題があると他人に思われるのが嫌いな人なんだなぁと感じていました。

確かに、母は、今となってはいつからか覚えていないのですが、大活躍していました。私の小学校高学年ぐらいからだったかもしれません。最初はヨガから始め、アシスタントとなり、すぐに自分で教えるようになり、勉強してヨガやエアロビスクやジャスダンスなどを取り混ぜた、オリジナルの健康体操を教えていました。大声で笑うということもふんだんに取り入れていた覚えがあります。おしゃれで、明るくて、若々しくて、きれいで、格好良くて、若い人からおばちゃんたちまでのアイドルというか、スターでした。多い時は、週に12回レッスンし、一時期延べ700人(週に複数回受けている人も含め)の生徒さんがいました。すごいですよね。母は多くの人を健康体操を通して幸せにしたと思います。いつも、たくさんの生徒さんからのプレゼントが家にありました。私もおいしいパンやら何やらをご相伴にあずかっていた覚えがあります。母は必ず十分以上のお返しをしていて、それも結構大変そうだなと思っていました。また、外では明るくて屈託なかったようですが、教室の役員さんたちとの人間関係をかなり気に病んでいたようで、いろいろ話してくれました。

母は、家事も完ぺきにこなすスーパーウーマンでした。朝は4時に起きて、掃除、洗濯、食事の用意をし、暇さえあればふき掃除をしていたので、家の中はいつもピカピカでした。その反動か、私も妹もいまだに片付けが苦手です(笑)。朝4時に起きるので、夜は9時に寝ていました。健康的ですね…。私は、以前にも書きましたが、高校の時に踊りのリハーサルで帰ってくることが夜中ということもしばしばだったので、その時間にもまだ起きている父を捕まえて、その日にあったことをひとしきりしゃべってから寝ていました。でも、よく寝心地の良い応接間のソファで寝てしまっていることがあり、だいたい夜中の2時ごろに母に起こされて、ベットへ行くという感じでした。

以前も書きましたが、私が小学校の頃までは、母は本当に厳しくて、叩かれることもよくあったので、私は怖くてなりませんでした。まあ、それが普通の時代でしたし、初めての子で頑張りすぎていたのかもしれませんね。実際、妹には、私よりかなり甘かったと思います。でも、中学校ごろから、母は急に優しくなりました。あまりに急で、話し方も変わったので、いったいどうしたんだろうと、ポカンとしたことを覚えています。何か心境の変化があったのかもしれませんね。それからは、特に舞踊のことはとても応援してくれました。母もいろいろ私に相談してくれ、母であるけれども、友達のような面もあったと思います。おしゃれで、ファッションセンス抜群だったので、よく妹と3人で服を買いにいった覚えがあります。

いろんな面で、私には及びもつかない素晴らしい母でしたけれども、母が父にがみがみ言っていたのが印象に残っていて、私は父にはあまり良い印象がありませんでした。父は特に何も言い返さない人だったと記憶していますし、子供としては母の言うことが正しいと信じていました。私は父は嫌いではなかったですし、夜中に少し話をしていましたので多少交流がありましたが、父は仕事で忙しく、毎晩10時ごろまで帰ってこなかった覚えがあるので、私の妹は、父とは全く交流がなかったと思います。あまり話をしない、とっつきにくい人でしたし、娘にどう接していいのかわからない感じもしていました。また両親の結婚に至るまでの前時代的なエピソードも、私は母から繰り返し聞かされていました。それは父のせいではないですし、時代のせいだったのでしょうが、母がかわいそうで、ちょっと憤っていたこともありました。父はそういうことは話さないので、父側から見たら実際どうだったのかよくわからないですけれども。それやこれやで、私は、35歳ぐらいまで、実は父が本当はとてもやさしく、良い人であるということに気づきませんでした。私が鈍すぎる面もあるでしょうが、これだけは、母が子供の前で父のことを悪く言うのは、本当に良くなかったなぁと今でも思っています。とはいえ、母も若かったので仕方のない部分もあり、私には伺い知れない、いろんな葛藤もあったのでしょう。

もちろん欠点もありましたけれども、本当に素晴らしい母だったなぁと、今は素直に思います。私の夢も後押ししてくれました。私のアメリカで舞踊を勉強したいという夢も母は応援してくれていました。実は父は反対していたのです。父は1年ほどロサンゼルスに駐在していたことがあり、ニューヨークの危険さも知っていて、やはり娘が心配だったのでしょう。

母が亡くなった時、私は茫然としてしまって、リアリティもなく物事が進んでいくような感じで、また姉ですし、しっかりしなきゃという意識もあったのか、あまり悲しみも泣きもしなかった覚えがあります。妹に「大丈夫、私たちのお母さんは死んだんじゃない。私たちの中にいつもいる」と何度か繰り返した覚えがあります。ただ、祖母の悲しみが尋常ではなかった。床に座って、膝をさする同じ動作を長い長い間続けていたのが印象に残っています。それで、「ああ、子供は親よりも先に死んではいけないんだ」と強く思いました。余談ですが、その随分後に、私はいろいろ辛いことがあって、死にたいと思っていた時期が長くありましたが、でもその時、父より先に死ぬことはできないと、自分に言い聞かせていました。今は、死にたいという気持ちはなくなりましたが、たまに、くせになっているかのようにポッと出てくることもあります。でも、おかげさまで、今はそんな気持ちに囚われず、すぐ抜け出せるようになっています。

母が亡くなる前の晩、母は実家にいたのですが、祖母に、私をアメリカに留学させたいと話していたのだそうです。それで、母が亡くなった後、祖母が私の父に、母の最期の願いだからと、私をアメリカに留学させてくれるように頼んでくれたのです。それで、父も留学を許してくれました。でも、ニューヨークは心配だから、自分が以前駐在していたロサンゼルスなら、多少事情が分かるからよいということになりました。おりしも、私のジャズダンスの先生も、アメリカにダンスだけを学びに行くのではなく、大学に行って、舞台照明や衣装/化粧や舞台作りなど、舞台芸術全般を総合的に学んで来たらどうかと勧めてくれていたのです。その頃来日した先生のダンサー友達で、カリフォルニア芸術大学(California Institute of the Arts、通称CalArts)を卒業された方がいて、その大学を勧められました。それで、その大学入学を目指すことにしたのです。その後のことは、また別の機会に書きますね。

 

母にはとても感謝しているのですが、母が今でもいてくれたらよかったのにと思うことが、まだたまにあります。そうしたら、私の人生ももう少し違ったものだっただろうし、こんなに行き当たりばったりでなく、もう少しまともだったかもしれないと思います。でも、こんなに好き放題に生きることは難しかったかもしれませんね。今の私の人生もなかなか楽しいので、文句は言いませんし、不幸だとは思いませんが、母が長生きしてくれた人は幸福だなと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。

実際、みなさんに読んでいただくことを想定してこの文章を書いていますけれども、この文章を書くことによって、いろんな感情が癒されていく自分があることに気づいています。長い年月が経ち、もうすっかり大丈夫だと思っていたのに、この文章を涙なしでは書けない、まだまだトラウマがある自分にちょっと驚いています。(でも、書き終わるとケロッとしていますけれども。)母の死が私がアメリカに渡るひとつのきっかけになったので、自分の記録を書くにあたって母との思い出を書いてみましたが、こういう機会がなければ、また、読んでいてくれている方々がいらっしゃらなければ、得られなかった癒しです。本当にありがたいです。みなさまに感謝です。

 

<今日の植物(庭の植物シリーズ)>

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「百合カサブランカのてっぺん」photo by Kaori

母が大好きだった白い百合。豪華なカサブランカを去年から育てています。今年の開花はまだまだ先ですが、茎が1メートル以上に育ってきました。そのてっぺん部分の写真です。つやつやの葉っぱも美しいカサブランカ。今年も綺麗な花が楽しみです。