香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

アメリカ留学に至るまで ~ 私の歴史/記録(4)

今日は私の歴史/記録シリーズです。私自身、自分の記録を書き留めておきたいと最近思い、書いています。自分の記録を思い出しつつ書くことで、私自身、いろいろ整理でき、癒されていっている面もあると感じます。こういう場があることに感謝です。個人的な話で恐縮ですがお付き合いください。これまでの経緯は、こちらからご覧ください。↓

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前回は母の思い出と、母の死が私のアメリカ行きのひとつのきっかけになったことを書きました。話は前後しますが、私は私立の高校を卒業後、そのまま同じ学院の大学の短期大学部に進み、その後、就職していました。就職した年に母が亡くなったのです。短大へは、同じ学院だったので入試ではなく、高校の成績と最終試験で決まりました。実は、大学の学部を選ぶのも、母の意向もあり、私自身も、その大学で一番難しくて、ステータスが高いからと4年制の英文科を目指していたのです。踊りのためにも勉強を頑張って、高校の成績も良かったですし、4年制の英文科へ入学できる圏内にいたのですが、最終テストで圏外に落ちてしまいました。他の4年制の学部に進むこともできたのですが、短期大学部の英文専攻へ行って、その後アメリカにダンス留学したいと母に伝えました。けっこうな挫折感でしたが、今思えば、それでよかったのだと思います。どんなことも、のちの重要な経験につながっているなぁと、最近よく感じます。

また、英文学に興味があったわけでもなく、英語もどちらかと言えば苦手だったのに、ステータスが高いからと英文科を目指したのも、子供だったなぁと思います。でも、あまり記憶にないのですが、あの時の私にとって、踊り以外はどうでもよかったのかもしれません。ただの面子のために大学に行きたかったのかもしれませんね。だだし、行って良かったと思っています。

短大生活のことは、実は、ほとんど覚えていません。英文タイプを習ったことが、今一番役に立っているでしょうか。その他には、フランス語の先生をよく覚えています。ハスキーな声のボーイッシュなかっこいい女性の先生でした。フランス語はMerci(ありがとう)やQu'est-ce que c'est?(これ何ですか)ぐらいしか覚えていませんが、先生のお話が面白かったのです。先生が学生の頃、格安で世界各地を旅したことや、航空会社持ちで現地のホテルにただで数日滞在する方法など、興味深いことばかりでした。思えば、その頃から外の世界を広く見ることに興味を持っていたのかもしれません。

短大生活を送っていた頃は、ジャスダンスの方は、あまり先生がいなかったような記憶もあります。ダンスカンパニーのメンバーがスタジオを支えていたような、あやふやな記憶が…。私も、先生の代わりに文化センターやスポーツクラブでジャズダンスを教えていました。東京にもたまにダンスを学びに行っていた記憶があります。

短大を出て、やはり就職をするのが当たり前という流れになり、ある事業所に就職しました。そこは、仕事もそれほどきつくなく、定時に帰れるところで、また、部署内の雰囲気も良くて働きやすかったので、ダンスを続けるにはピッタリでした。その頃、私はジャズダンスの先生の影響で、片耳にピアスを3つも付けていたので、お堅い事業所で、かなり話題になったようです。また、制服なので着替えるからよいのですが、ミニの短パンで会社に行ったり、朝は化粧が薄くても、昼休みに舞台仕込みのかなりのばっちりメークに変えたり、好きなようにやっていました。その代わり、仕事はちゃんとしていましたよ。上司の女性がとても良い人で、その人にかわいがってもらえて、仕事は快適でした。余談ですが、この女性上司の方には本当によくしてもらい、私がアメリカに行く前にも、アメリカで着れるようにと、餞別に浴衣などの用意をしてくださったのです。その後、長年のうちに、連絡先もわからなくなってしまったのが残念です。

私の職場では同じ部署の職員の多くが参加しての食事会や鵜飼など、なかなか楽しい思い出がたくさんあります。仕事を終えると、そのまますぐにダンススタジオへ毎日行っていました。その頃はスタジオの鍵も預かっていましたし、先生もいないことが多く、私が教えることもあったように記憶しています。その後すぐ、スタジオは立ち行かなくなり、閉めることになったのですけれども。先生も東京に行ったりでほとんどおらず、カンパニーメンバーで先生のお母さまのところまで、スタジオを存続させてくれるようにお願いしに行った覚えがあります。そこで分かったことは、スタジオは以前から全然採算がとれておらず、日本舞踊のお師匠さんであるお母さまが足りない分を補てんしていたということ。ちょっとショックでした。こういうスタジオを存続させていくのは、とても大変なことなのだとその時初めて知りました。

就職して4か月半ほどで母が亡くなり、その後も仕事をしていたのですが、2年目の6月に辞めて、留学に備えることになりました。その時に、サポートしてくれたのは、母の妹である叔母です。本当に感謝しています。この叔母には、現在に至るまでとても世話になっています。きっと、母の代わりにと思っていてくれるのでしょう。とてもありがたいことです。

前回にも書きましたが、私のダンスの先生から、アメリカへはただ踊りを学びに行くのではなく、舞台芸術を総合的に学ぶために、大学の舞踊科入学を勧められていたので、私は先生が勧めてくれたロサンゼルス近郊の芸術大学入学を目指しました。その年の9月に留学することになったのですが、私の希望大学に入るには、TOEFL550点が必要だったのです。英語は苦手でしたし、それには全然足りなかったので、まず、現地の語学学校に留学することにしました。どういう経緯だったかまるで覚えていないのですが、東京のあるエージェントにお願いして、語学学校やホームスティ先、ビザ、航空チケットもすべて手配してもらった覚えがあります。

父には、「2年で帰ってくるから」と説得したのですが、最初から2年で帰るつもりはさらさらなかったです(笑)。少なくとも4年と最初から思っていました。でも結局、その何倍もアメリカにいることになったのですが。親不孝者ですね…。でも、最初は2年と言わなければ行かせてもらえなかったでしょう。結局は父に甘えていたのだと思います。それは今でも変わらないかも…(笑)。また、母が私のために貯めてくれていたお金があったので、母にはどれだけ感謝してもしつくせません。でも、留学にはそのお金が使われていたということは、私はずーっと後になるまで知らなかったのですけれどもね。父が出してくれているのかなと思っていました。甘々ですね。

留学中は、奨学金をもらい、バイトをして、何とかやっていました。特に2年が過ぎてからは、父からお金を出さないと言われ、祖父母に頼んで借金をしたり、友達の家に住まわせてもらったり、いろいろありました。アメリカでは留学生でも奨学金がもらえ、とても助かりました。祖父母にも本当に感謝です。

私のアメリカでの留学生活については、また別の機会に書きますね。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって良い一日となりますように。

 

<今日の植物(庭の植物シリーズ)>

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「イエローワンダーストロベリー」photo by Kaori