香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

アメリカの語学学校とホームスティ ~ 私の歴史/記録(5)

私の歴史/記録シリーズです。これまでの経緯は以下のリンクをご覧ください。

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前回は、アメリカに行くまでの経緯を書きました。まだ、書ききれていない部分もありますが、とりあえず、進みますね。

アメリカでは、希望している大学に近いということで、カリフォルニア州サンタモニカにある語学学校に行くことになりました。そこには、3か月いたと思います。毎度のことですが、昔のことで、学校のことはあまり覚えていないです…。英語学校なので、当然、みんな外国人、様々な国から来ていました。日本人ももちろん何人かいましたし、スペイン人や、フィリピン人、タイ人、珍しいところでは、ブータン人の方もいらっしゃいました。余談ですが、そのずーっと後の、西暦2000年前後だったと思うのですが、あるブータン人の有名な音楽家が、その頃私が住んでいたサンディエゴにやって来て、そのコンサートのお手伝いをしたことがあります。その方が言うには、その時までに、アメリカにやってきたブータン人は二人しかいないというのです。国外に出るには政府の許可が必要だったらしいです。びっくりしました。本当にレアな方にお会いしたのですね。今は知りませんが、その頃はブータンに外国人が入るには、一日200米ドル払わなければならなかったらしいです。一種の鎖国状態だったのですね。でもブータンは国民の幸福度がとても高いので素晴らしいです。

話を戻します。私にとっては、こんなに大勢の外国人と接するのは初めてだったので、いろいろカルチャーショックでした。特に、ヨーロッパ系の人とおしゃべりすると、顔の距離が近い近い。ちょっと、後ずさりしながら、しゃべっていたことを覚えています。

住むところは、最初はホームスティをしていました。サンタモニカの少し北にある、パシフィック・パリセイド (Pasific Palisades) という場所。パシフィック・パリセイドは、サンタモニカと高級住宅地マリブの間の小高い丘の上にあります。語学学校のあるサンタモニカへ行くには、バスに30分ぐらい乗らねばならず、バスも一時間に1本か2本しかなかった記憶があるので、なかなか不便で最初は心配しましたが、とても素晴らしいところでした。太平洋のすぐわきに、パシフィック・コースト・ハイウェイが通っていて、海と反対側は崖となっており、その崖の上にパシフィック・パリセイドはあります。カリフォルニアは西海岸なので、海岸からは太平洋に沈む素晴らしい夕日が望めますが、パシフィック・パリセイドからは海が見下ろせ、さらに雄大な景色が楽しめました。初めて見た時は、太陽の大きさ、その赤さ、沈んでいく海の広大さに本当に感動しました。おまけに、南カリフォルニアは天気が悪い日がとても少ないので、見ようと思えば、毎夕でも見れるわけです。おまけに、空気がカラッとしていて、一年中、暑くもなく寒くもなく、とても快適なのです。

また、パシフィック・パリセイドは、それなりに裕福な人たちが住むコミュニティらしく、非常にのんびりしていて安全でした。道を歩いていると、知らない人でも、みんな必ず挨拶してくれました。アメリカでも何か所かに住みましたが、そのような場所は、アメリカでは、後にも先にもそこだけでした。今でも、明るくきれいなパシフィック・パリセイドの街並みを鮮明に覚えています。今思えば、白人ばかりだったような気もします。

ホームスティ先は、子供が独立してしまった年代の老夫婦の家でした。顔はよく覚えているのですが、名前の記憶があやふや。ファーストネームはなんとなく覚えていますが。確か、ジムとベティだったような。余談ですが、アメリカに行って、年上の方でも、名前を呼び捨てにするのがカルチャーショックでした。人によっては、自分の両親でも、名前で呼び捨てることもよくありました。のちに大学に入った後も、先生たちを、ティナとか、クリスティンとか、ファーストネーム呼び捨てで呼んでいました。アメリカでももちろん「~教授」とか、ミスターやミセスなどの敬称をつけて呼ぶ人もありましたけれども、私の大学は自由な校風でしたし、カリフォルニアで開放的だったから呼び捨てだったのかもしれません。上下関係は感じず、遠慮せずに人間として対等に渡り合える感覚でした。今でも、私自身、どんな人でも平等だという感覚が強く残っているのは、そこでの学びが大きいと思います。あ、でも、アメリカは全然平等な社会ではなく、いまだに差別の強い面が多く残っている社会です。そのことは、また機会があれば書くかもしれません。

ホームスティ先のお父さんの方は、クラシックレコードを聴くのが好きで、良いスピーカーがあり、ビリヤード台のある部屋でソファーに座って、よく大きな音でクラシック音楽を聴いていたのを覚えています。お母さんも、とても親切だった覚えがあります。また、門限もなく自由にさせてくれました。夕飯なども、冷蔵庫に入れてあって、好きな時に食べられるようになっていた覚えがあります。朝食は、シリアルに牛乳が多かったような覚えが…。日本では母が生きている時は何品もある立派な夕食を作ってくれていましたが、ホームスティ先ではけっこうシンプルな食事で「ああ、違うものだなぁ」と思ったものです。でも、彼らも、変に気張ることなく、変に気を使うわけでもなく、自然で、とても過ごしやすい家でした。そこに縁があったことはとても幸運だったと思います。

語学学校にいた時、ちょっとした冒険をしました。日本からアメリカ行きの飛行機で隣の席だった男性も同じ語学学校に通っていたのですが、彼は以前、テキサス州サンアントニオに留学していたのだそうです。それで、長い休みの時にサンアントニオに遊びに行かないかと誘われたのです。余談ですが、その彼とはその後、何年かお付き合いさせていただきましたが、本当に良い人でした。話を戻します。二人でレンタカーを借り、サンタモニカから交代で、ほぼぶっ通しで運転し、27時間かけてサンアントニオに行ったのです。カリフォルニアからアリゾナ州ニューメキシコ州を通って、テキサス州に入るわけです。サンタモニカからずっとルート10のフリーウェイで行きました。アメリカの広さを知る本当に印象深い冒険でした!

この冒険の話は、また次回、お楽しみに!

 

ここに書いていることは、私が自分に起こったと思っていることを、自分勝手に解釈し、事実だと思っているストーリーで、夢のような話だと思うこともあります。所詮、すべては自分勝手な解釈で成り立っている夢のようなものですよね。ひとつの事柄も人の数ほど解釈と事実がある。そして摩擦が起きたりする。でも、この自分勝手の喜怒哀楽のストーリーが面白いよなぁとも思います。そして、ここに書いていることが、私が事実だと思っているストーリーです。いろんなことに振り回され、悩んだり、怒ったり、笑ったり、楽しんだり、泣いたりしながらも、自分の中心には「絶対大丈夫だ」と思っている静かな自分がいることにも少し気付いています。すべては夢と思うと気が楽かも(笑)。なんだか御託を並べてしまいましたね(笑)。

 

私のストーリーを読んでいただきありがとうございました。

あなたにとって良い一日となりますように。

 

<今日の植物(庭の植物シリーズ)>

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「開花間近のレウィシア」photo by Kaori