香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

犠牲祭(1)

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

ちょっと日があきましたが、この夏のジャワ滞在記の続きです。

8月22日は、イスラム教のIdul Adha、いわゆる犠牲祭で、祝日でした。

前の晩はマスジッド(モスク)から、ずっとアザーンが流れていました。(ちなみに、一日は日暮れから始まると、考えられています。)異国情緒あふれる感じで良いのですが、夜も早いうちは、ずっと子供が「アッラーは偉大なり」と繰り返し歌っていました。かわいいですし、宗教教育にもよいのかもしれませんが、子供が音程もかなり外して、叫ぶように歌っているのを大音量で延々と聞くのは、ちょっと疲れたりします。うまい人がアザーンを歌っているのなら、結構楽しめるのですけれども…。それにしても、大多数がイスラム教徒とはいえ、他の宗教の人もいるわけなので、あちこちあるマスジッドから、我も我もと大音量のスピーカーで流さなくてもよいのにと、ちょっと思います。それも、争うように、年々大きくなっていくような気もします。そんなに大きな音じゃなくても、ちゃんと聞こえるよと思います。マスジッドはたくさんあるので、スピーカーから流れる音で、町中が溢れかえります。イスラム教徒の友人はたくさんいますし、イスラム教は嫌いではないのですが、こういうところはちょっと残念かも。仕方がないので、楽しむしかないですけれどもね。

当日の朝は、イスラム教徒の方々は、コミュニティで集まってお祈りをささげた後、牛やヤギを決められた方法で殺して捧げます。肉はみんなで分けられるようです。そして、どの部分も無駄にされずに使われるようです。
動物たちは、コミュニティ内の家族それぞれが経済状況に従って、寄付したもの。オスで一歳以上であることが条件のようです。ヤギは、2万円前後、牛は20万から50万円ぐらいするそうです。ヤギは、ひとつの家族が、牛は、何家族か集まって寄付することが多いようです。この日が近くなると、街角で、売られているヤギをよく見かけます。
インドネシアに来るまでは、動物を犠牲にささげるという考え方に間近に接したことがなかったので、どう捉えたらよいのかわかりませんでした。インドネシアでは最初に行ったバリでも、犠牲にささげられた鳥などが道の真ん中に置いてあるのを見かけたりしていましたし、豚なども犠牲にささげられていました。バリの場合は、犬の場合もあるようですね。赤い犬が良いと聞いたことがあります。
ジャワはイスラム教なので、豚は不浄とされているので、捧げられることはないですが…。
動物を犠牲にささげる習慣というのは、どう始まったのでしょうね。調べたことがないのですが。犠牲祭自体は、もともとは、アブラハムが息子を犠牲にささげたことから始まっているようですね。代わりに動物をということになったのでしょうか。
私は、肉も食べるので、いつも誰かが殺してくれた動物の肉を食べているわけで、でも、こういう儀式は、まだまだ私の中では、どう捉えるべきなのか整理がつきません。気の弱い私は、やはり、その場には、居たくないと思ってしまいます。もっとも、見に行ったことはないのですし、近くでそういう場があると、遠出をしたりしてしまいます。そういうところが現代人なのですかね。昔なら、自分で動物を殺して捌いて食べることが普通だったでしょうけれども。

以前、私が住んでいる家の隣の空き地で行われることになり、ちょっと辛かったですね。そして、何日も生臭いにおいが続いていました。
話はちょっと飛びますが、私はたくさん植物を育てているので、植物の命についてもよく考えます。私にとっては、植物の命も、動物の命も同じ。ちなみに、以前は犬を飼っていました。もちろん、動物の方が人間に近いので、より感情的になり、感情移入しますけれども。でも、すべての生き物は、他の生き物を食べないと生きていけないようになっているのですよね。人間だって、死ねば、体はバクテリアや、他の動物や、植物の栄養になるのでしょうし。ウィルスや、バクテリア、他の動物に殺されることもありますし。動物たちも、他の動物、または植物を食べないと生きていけない。植物たちも然りでしょう。植物も動物も、すべての生き物はそうやって命を繋いでいる。人の目に見えるものも、見えないものも、生き物はすべて、そうやって循環しているのかなと思います。そう思うと、大きな循環の中に、私たちは組み込まれているのですね。それが大いなる自然の意思なのかなと思うこともあります。ですので、私は、食事と頂くとき、命を頂いているのだと、感謝を忘れないようにしたいと思っています。そして、普段、食事に出てくるようなものは、量の調整はしますけれども、基本的に何でも感謝していただくようにしています。(ただし、とても辛いものは舌が受け付けないので、食べられないのですけれども…)

 

さて、犠牲祭の日は、私は帰国2日前で、バタバタしていたのですけれども、朝ご飯を食べた後、少し時間の余裕があったので、クラトン(カスナナン王宮)から、大モスクまで、Gununganという、食べ物でできた御輿と、王家の従僕や楽隊や兵士たちの行列が出ることを思い出し、行ってみることにしました。ちょうど、私が着いた時は、行列が来る直前で、タイミングが良かったです。

 

まず、モスクの方へ行ってみました。

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スラカルタのマスジッド・アグン」photo by Kaori

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スラカルタのマスジッド・アグン」photo by Kaori

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スラカルタのマスジッド・アグン」photo by Kaori

私はいつもスカテンというお祭りの時期しかここには行かないので、多くの露店が出るその時との雰囲気があまりに違って、場所を間違えたかと思ったほどでした。

マスジッドでは、まだ、殺されていない牛が2-3頭いて、少し暴れていました。人々は遠巻きに見ていました。

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「犠牲祭に連れてこられた牛たち」photo by Kaori

 

すでに、10時半ごろで、犠牲が始まって、かなり時間が経っていたのですが、これから殺されてしまうのでしょうかね。他の場所では、とっくに終わっている時間なのですが。ここでも、すでに、ほとんどは殺されて処理されている最中で、大きな骨の部分は、大きな電動のこぎりのようなもので切っていて、びっくりしました。そして、たくさんのビニール袋の中に、肉が入れ分けられていっていました。これが、みんなに分けられていくのですね。

 

少し待つと王宮からの行列がやってきたのですが、それは、また明日にでも、続きを書きますね。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように