香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

方広寺接心(1)

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

この10月6日~8日の3連休は、浜松の方広寺という臨済宗の禅寺で行われた、いまここ道場の接心に参加してきました。その時のことを、自分の覚え書きも兼ねて書いておこうと思います。長くなるので、何度かに分けて書きますね。

 

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方広寺」photo by Kaori

 

方広寺での接心は今年の3月に続き、2度目です。3月の時は、まだまだ寒かったですが、今回は、幸い台風がそれたこともあり、良いお天気に恵まれました。日中は30度近くまで気温が上がっていたのではないかと思います。多くの木に囲まれているところとはいえ、かなり暑かったです。

 

いまここ道場の接心は、みんなが社会的な地位を持ち込まず、平等にあるという考え方から、お互いを「~ちゃん」とか、本人が決めたニックネームで呼ぶことになっています。それもなかなか素敵。ぐっと親近感がわきます。

 

接心では座禅三昧。ただ、お坊さんの修行のように、全くおしゃべりも、交流もしないのではなく、休憩時間は、休憩室でお茶やお菓子を頂きながら、参加者同士でおしゃべりや交流もでき、そういう意味では、ゆるくて、なかなか楽しいです。多くの出会いもありますし、それが楽しくて、今回の2度目の参加となりました。今回は、知った顔が多かったです。

 

禅堂では、基本的なルールを守ります。沈黙を守り、座禅の初めと終わりの合図も、柝(たく、拍子木)や引磬(いんきん、手持ちの鐘)などの鳴らしもので行われます。叉手出班・合掌帰班など、座禅をする座布団へ行くときと、そこから出る時も、決められた、歩き方などのルールがあります。

 

詳しくは、こっさん(向禅師)のブログに書かれているのを見つけました。

風のたより:坐禅入門⑧ー禅堂の作法と坐禅の仕方(解説編)

 

私は、普段から、座禅もたまにしていましたが、最近では、もっぱら、瞑想する機会の方が多かったのです。でも、座禅と瞑想は全く違い、座禅は重要だと、何となく感じていたのです。それに、読経も結構好きなのですよね。

今回の参加者は、瞑想はするが、座禅は初心者という方々も多かったので、こっさんが、座禅との違いを少し説明してくれて、とても参考になりました。

瞑想は目を瞑ることが多いと思いますが、座禅は半眼。つまり、目を開けたままの状態で、視線を1m半~2mぐらい先に落とします。瞑想に慣れていると、この目を開けたままというのが大変。気が付くと、目が閉じてしまっていたり。もっとも、座禅中、目を開いていても寝てしまうことも。私は、あまり近くに視線を落とすと眠くなってしまうので、3mかそれ以上先に視線を落とすことが多いです。

 

座禅では、いまここにいることが重要とのこと。見えているもの、聞こえているもの、感じられるものをすべて感じて、そこにいて、禅定に入っていくということでしょうか。

武士が、座禅をしていても、敵が襲ってきたら、ぱっと対応できるように、というような説明が、なぜか、とっても腑に落ちました。

そして、正しい姿勢と腹式呼吸丹田に意識を持っていくことで、禅定に入りやすいということも、なんとなく体験できたような気がします。

でも、とにかく足が痛い…。私は結跏趺坐は無理なので、半跏趺坐で座ることを心掛けていたのですけれども、30分はやはりもたずに、何度も組み替えていましたね。最後の方は、かなりやばかったかも。床に座るのがつらい人は、椅子に座って行ってもよいのですが、私は、何とかやり遂げたくて、出来るだけ半跏趺坐にしていましたよ。私の場合、足首が固いので、そこからすべての足の関節に負担が来て辛いのですけれども。

ただし、やはり、足が痛いとか、寒いとか、そういう修行のような状況の方が、今に集中できて、良いという面もあるようです。私は、雑念想念が、座禅中に流れてくることが多いですし。でも、それもとらわれずに放っておけばよいようです。こっさんも、「青空ばかりではなく、雲があったりする方が、変化があって楽しいし」と、言ってくださいましたし。

 

今回の接心は、阿部敏郎さんが2日目からいらしていたのですが、阿部さんの講演で、「座禅をしたからといって、何かが良くなるとか期待しないで。…(中略)... 座禅がゴールだから」というようなこと(一度聞いただけなので、実際に使った言葉は覚えていないですけれども)を言っていたのが、非常に印象に残っています。確かに、そうですね。いまここがすべてですものね…。直観ではなんとなくわかっても、体感できないのが悔しいけれども。でも、確かに、私自身も何かを期待して座禅や瞑想をするというより、座禅や瞑想中に、ただ全てから手を引いて、ただそこにあるという状態に浸かりたくてやっているのかなという気はします。

 

座禅中、今回初めて体験したのは、警策という棒で叩いてもらうということ。警策を持った(肩に担いだ)方が、ゆっくり周ってくるので、近くまでいらしたら、手を合わせて、打ってほしいという合図をします。そして一礼して、上体を前に倒します。そして、肩から背中にかけてを、左右2回ずつ叩いていただくのです。叩くほうの棒は、平たくなっているので、そこまで痛くはないのですが、かなり、びしっ、ズシンとくる感じでした。思っていたよりもずっと強くてびっくり。しばらくじんじんしていますけれども、だんだん、気持ちよくなっていきます。そして、叩いてもらうことで、いまに、一瞬にして戻れますしね。なかなか興味深い体験でした。

 

座禅は、本当にたくさんしました。一回は線香が燃え尽きるまでの約30分間。座禅をして経行(歩行禅)をし、また座禅に戻るということも、何度かしました。経行も、足の裏に感じる床の感じや、足が曲がる感じなどを感じるようにしていましたが、けっこう、いろいろなことに考えが浮遊していましたね。普段から、そんな風に、いろいろ取り留めなく浮かんでくる思考に囚われる癖がついているのでしょうね。

 

座禅の中でも、とても気持ちよかったのは、本堂濡れ縁での夜座と、本堂の重要文化財である釈迦三尊像の前での早朝の座禅。夜座は、夜、本堂の縁側に座って、暗闇の中で座禅をするのですが、これがとても気持ちよいのです。前回は、かなり寒かったのですが、今回は、気候も良く、秋の虫の声の合唱、星のきらめくなかで、その中に溶け込んでいくような感覚になります。本堂での座禅は、早朝ということもあり、スズメやその他の鳥たちが、盛んにさえずるのが聞こえ、また朝日が差してきていて、本当に気持ちが良かったです。自然が感じられる中での座禅が、私は好きなようです。

 

長くなるので、今回はここまでにします。

 

読んでくださってありがとうございます。

あなたにとって素敵な一日となりますように