香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

マンクヌガラン王宮での舞踊練習 ~それにまつわる思い出といろいろ思うこと

このブログにご訪問頂きありがとうございます。

 

引き続き、1月末から3月半ばまでジャワに滞在した時の記録です。

 

今回は、マンクヌガラン王宮でのジャワ舞踊の練習について。

でも、書いているうちに、だんだん思い出話が多くなってしまいました。(笑)

 

まず、背景に関して

私は、2003年からの留学当時から、ずっと縁あってマンクヌガラン王宮での舞踊練習に行かせていただいています。

話はちょっと逸れますが、実は、留学した時がジャワへ初めて行ったときでもあります。今考えると、行ったこともない土地によくぞ行ったなぁと思います。まあ、縁があったのでしょうね。あ、でも考えてみれば、アメリカに留学した時も、ハワイ以外のアメリカに初めて足を踏み入れた時でした。怖いもの知らずでしたし、それが普通だと考えていたのでしょうね。

その当時住んでいたアメリカ西海岸から、飛行機は日本経由だったにもかかわらず、日本にも寄らず、そのままソロへ行ったわけですが、もちろん、アメリカでは、ジャワ舞踊やジャワガムランに縁があったからこそ、ジャワ行きを決めたわけです。実は、当時はバリ舞踊とバリガムランもやっていて、どちらかと言えば、バリ芸能の方がその当時はやる機会も断然多く、舞踊もガムランもバリの方が断然よくできたと思います。でも、ジャワ舞踊もガムランにとても魅かれていたのですよね。良いジャワ舞踊の先生に出会ったことも大きかったかな。(ちなみに、その方はソロの芸術大学出身で、今でもアメリカに住んでいらっしゃいます。)そして、何より、バリには日本人が何百人もバリ芸能を学んでいると聞いていたので、ひねくれものの私は、そんな日本人がたくさんいるところに行ってもつまらないと思ったこともあり、ジャワ行きを決めたわけです。今は、日本は素晴らしいと思いますが、アメリカに出たころの私は、自由に生きたい私のような人間には日本は住みにくく感じ、あまり好きではなかったのです。まあ、他にもいろいろ複雑な事情も絡んでいましたが、それは置いておいて、何事も縁ですかね~。

 

かなり脱線しましたが、そんなわけで2003年9月からジャワへ留学したわけです。当時、アメリカで何度かお会いしたことがあった、ソロのもう一つの王家、カスナナン家の王族の方に連絡を取ってあったので、その方や、ソロの芸術大学の外国人受け入れ部署の関係者が空港まで迎えに来てくれていたことを覚えています。

 

カリフォルニア芸術大学留学中に、誘われたことから、カリフォルニアでジャワ舞踊・ガムランと、バリ舞踊・ガムランを始めたわけですが、先生方は、みんなジャワやバリの方々でした。そして、ジャワガムランの先生が、ジャワに留学するならソロにするように勧めてくれたので、ソロにしたわけです。

また、縁あって、ロサンゼルスのインドネシア領事館でのイベントで踊らせてもらったり、練習で使わせてもらったりしていたのですが、当時、経済担当の領事だった方の、お母様がマンクヌガラン王宮の舞踊の先生ということで、紹介を受けていました。タルウォ先生という方。もちろん本名はもっともっと長く、Suyati Tarwo Sumosutargyoとおっしゃいます。Tarwoさんというのは、旦那様のお名前ですね。ちなみに、ジャワでは苗字というものはないです。

タルウォ先生が、私がソロに行ったら学ぶべき先生のリスト(私のジャワガムランの先生に、いろいろ聞いてリストにしていたのです)に入っていたこともあり、アメリカにいる時から、縁を感じていました。

また、ソロに着いてから知り合った、日本人の舞踊を学んでいる方々も、みんなマンクヌガラン王宮で学んでいたので、その方々のご紹介もあり、ソロに到着して、早いうちからマンクヌガラン王宮の練習に参加することができるようになりました。

そして、タルウォ先生にも、留学してすぐに個人レッスンを受け始めました。

 

もう、16年近くにもなるのですね。何と早い。その間、素晴らしいことも、権力闘争などに巻き込まれて嫌な思いをしたことも、本当にいろいろありましたが、今でも関わらせていただけるのは、ありがたいばかりです。

 

さて、背景はここまでにして、私がマンクヌガラン王宮で参加させてもらっている舞踊練習は、主に3つあります。

 

まず、王宮の大プンドポの上で行われる練習。生のガムラン演奏で行う練習です。水曜日の10時から12時まで。平日の昼間なので、今回の滞在中は一度もいけませんでしたけれども、大プンドポは、音の響きが素晴らしく、そこでのガムラン生演奏での舞踊練習は至福です。私にとっては、大事な練習の場です。以前は、うまい踊り手と一緒に踊る機会も多く、多くを学んだ場でもあります。うまい踊り手と一緒に踊ると、エネルギーの交流をビンビン感じ、その中から、そこでしか学べないようなこと、言葉では言い表せないような、大事なこと、素晴らしい感覚を受け取れます。それを自分の踊りに生かしていくわけです。

タルウォ先生によると、昔は、この水曜日の練習は、みんな9時には来て準備をし、10時にちゃんと舞踊練習が始まっていたそうですが、だんだんみんな遅くなってきて、今では、10時に来ている踊り手はほとんどいないですね。(私はなるべく遅くとも10時には行くようにしていたので、知っていますけれども…。)着替える時間も必要なので、時間もかかり、たくさん踊りの練習をしたい私としては、踊りの練習の時間が少なくなることが残念です。何時に始まっても、必ず12時か、その前には終わりますので。残念ながら、最近、ますますみんな来るのが遅くなってきているような気がします。演奏家も必ず早くから来ている一部の方々を除いて来るのが遅く、10時過ぎに一応始まりますが、少ない人数で、グンディン・ボナンという種類の曲を演奏し始め、だんだん人数が増えていく感じです。

だんだんみんなが来る時間が遅くなるのは、やはり、王宮というか、王家としての求心力が無くなってきているのが原因なのでしょうかね。それだけ、魅力が無くなってきているとか。

まあ、経済を最重視する今の世の中では、それも致し方ないのかもしれませんし、のんびりしているところが、ジャワの良いところでもありますが、こういう面はちょっと残念に感じます。

あとは、昔からそうなのかもしれませんが、人間関係や権力争いの問題。本当に、みんな仲良くやればよいのにと、いつも残念に思います。私自身、なるべく中庸に立つようにしているつもりですが、なぜか決めつけられ、巻き込まれて嫌な思いをすることもあるので、本当に残念に感じます。もっとも、私にも欠点はあると思うので、一方的な見方をするわけにはいきませんけれどもね。

ジョグジャカルタの王宮での練習にも参加していましたが、もちろん、そちらでもいろいろ問題は耳に挟んでいましたが、練習時の雰囲気や、練習にくる踊り手や演奏家の人数の多さ、そして、みんな王家や王宮を愛し、敬意を払っている態度が随所に見られ、舞踊やガムランがとても隆盛している模様をみているので、マンクヌガラン王宮の状況は本当に残念です。争っている場合じゃないだろうと思うのですけれども…。

まあ、人間ですからいろいろあっても仕方ないかもしれませんが、多くの人が気持ちよく練習できる場になってほしいなと願っています。その方が、みんな気持ちよいと思いますし、マンクヌガラン王宮の芸能にとって大切だと思うのですけれどもね。

まあ、私自身は、踊りの練習がしたいだけなので、いろいろあってもあまり気にせずに練習に行きますし、何と言われようと、自分が思うように行動しますけれどもね。

この練習も参加させていただけて本当にありがたいです。そして、状況が変わるとコロッと(仲間外れにされるのが怖いからでしょうか)一斉に180度態度が変わる人たちの中にあって、いつも変わらない態度で接してくれる友人たちや先生方のありがたさが身に沁みます。何事も、良い経験ですね。

そして、みんなそれぞれの立場でいろいろあって大変なのでしょう。でも自由で豊かな心でお互いに接することができたらどんなに素晴らしいだろうと思います。

 

なんだか話が逸れましたね。

 

さて、マンクヌガラン王宮の舞踊練習は、月曜日と土曜日の夕方4時半から6時、録音した音源を使っての舞踊だけの練習もあります。こちらは、大プンドポの上ではなく、脇で行われています。こちらの練習も、4時半に来ているのはごくわずか。結局、5時ぐらいに始まり、一曲踊って長い休憩があり、もう一曲でおしまいという感じ。

以前は、もうすこし熱心にやっていた記憶があるのですけれども、最近は、練習に来る人もわずかで、なんだか、だらだらやっているという印象が否めません。覇気がないというか。

そんなわけで、私も行ける時は行きますが、無理して時間を作ってまで行こうという気にはなれないでいます。なので、今回の滞在でも、この練習に参加したのは一度きり。貴重な練習機会ではあるのですけれども、頑張って行っても、人が集まらずに練習がなしになることもよくあり、まあ、のんびりしているというかなんというか。

 以前はいろいろ勉強になる練習だったのですけれどもね。なんだか残念です。また、盛り上がることを願っています。

 

私がジャワ留学当初から参加し、今回の滞在でも、出来るだけ参加していたのは、Pakartiと呼ばれる練習グループ。マンクヌガラン王宮の東門側にあるプランウェダナンと呼ばれる小さなプンドポで、水曜日と日曜日の夜行われている、一般の方の参加もウェルカムな練習です。私が留学していたころから、多くの外国人留学生も練習に参加していました。そして、近所のおじさんたちも参加。最近では、若い子たちがものすごく増えましたね。そして珍しく、男の子の踊り手がとても多い。

私が留学していたころは、ガムラン練習が主で、踊りの曲もやりましたが、やっても1曲か2曲。それで、踊れる人がいて踊りたかったら踊るという感じの練習でした。そして、7時に始まり、9時きっかりに終わっていました。私は、芸術大学で、ジャワ舞踊だけでなく、ジャワガムランの授業もたくさん受けていましたし、Pakartiを指導してくださっているHartono先生にも、留学当初から舞踊曲の太鼓やボナンを学んでいたので、私にとっては、ガムランの練習ができる、貴重な機会でした。Hartono先生に学んだことだけではなく、よく、芸術大学の授業などで学んだ曲の練習をやらせてもらったものです。専門的な話になりますが、今のPakarti の練習ではほぼ絶対にやらない、Gd Onang onang などのirama rangkep のある曲も練習させてもらっていたのです。あの頃は、他のガムラン練習にもいくつか顔を出していましたが、Pakarti では、踊りの曲の練習もでき、いろいろリクエストを聞いてくれたのも貴重でした。

 

2006年に留学が終わって日本へ帰国後も、毎年ジャワへ行く機会があり、なんだかんだとジャワで長期滞在する機会に恵まれ、結局、トータルにすると、10年ぐらいジャワに滞在する機会があったように思います。その間、ジョグジャカルタに住んでいた時期も長いですが、毎週のようにソロに行き、ソロにいれば、この練習へ行ったものです。

2011年だったでしょうか。ある時、Gusti Heru(現王マンクヌゴロ9世の弟君)が、Pakartiの練習に頻繁に顔を出されるようになりました。彼自身も踊り手でいらしたので、多くのマンクヌガランの踊り手たちと仲良くされていて、彼が誘ったのか、その頃、多くの踊り手が練習に参加するようになりました。

Pakartiの練習も、いつもは9時きっかりに終わっていたのですが、Gusti Heruがいらっしゃるのに、さっさと練習を終わるわけにいかず、Gusti Heruにお伺いを立てながら、Gusti Heruがやりたいと思われる踊りを練習し、10時半ぐらいまで練習をするようになりました。

私もGusti Heruには、本当にいろいろ引き立てていただき、仲良くしていただき、いろんな場面でマンクヌガラン王宮の踊り手として踊る機会も与えていただき、いろんなところに遊びに連れていっていただき、舞踊衣装も彼秘蔵のものをコピーして作らせていただいたりして、本当に感謝でいっぱいです。残念ながら、彼は2012年の7月に50代前半の若さ(ちょっと年を忘れてしまいましたが51歳だったかな)で急死され、私はちょうど日本に一時帰国している時で、ものすごくショックでした。

いつも、Pakartiの練習に来るときは、8時前後にいらしたと思いますが、みんなで食べるように、たくさんのお菓子を持ってこられ、にこにこと明るく、そしてジョークも満載でいらっしゃっていたことを覚えています。

Gusti Heruがいらっしゃり始めたころは、多くのうまい踊り手のお姉さんたちが来てくださっていたのですが、来たり来なかったりで、忙しいのか、だんだん来なくなり、また、踊りのうまいお姉さんたちも、実は、踊りの振りは、実はあまり良く覚えていなかったのですよね。だいたい、大プンドポでの練習でも、覚えている人についていけば踊れてしまいますし、よほどポピュラーな踊りでない限り、みんな舞台などがある直前に思い出す/覚えるぐらいで。今でも、それは変わっていない部分もあります。

加えて、そのお姉さんたちがいらっしゃらないと、後は、まだ新しい子たちばかり。私は、もともとモダンダンサーで、振りを覚えるのは得意で、よく練習もしていてマンクヌガランの舞踊もよく覚えていたので、結局、私がいつも一番前で踊る羽目になっていました。私は外国人なのに、こんなことでよいのだろうかと思いましたよ。でも、きっとそれが私のお役目だったのだろうと思います。私自身、しっかり学んできましたし、誰よりも、多くの踊り(男性舞踊も女性舞踊も)を学んできた自負もあったので、学んできたことを伝えるつもりで、先頭に立って踊っていました。でも、マンクヌガラン内でも様式のいろんな解釈があり、私なりに解釈したり、取捨選択している部分もあり、そういう部分は私の解釈でみんなに伝わってしまっているだろうなとは思います。時々、私と同じように踊っている子を見て、ドキッとしたりしていました。その点は、どうだったのかなと、今でも思うことがあります。でも、人から人に伝わっていくものは、どんどん変わっていくのも、私自身、この15年間で多くと見聞きしていますし、いろんな批判はあっても、結局はその芸能自体を豊かにし、いろんな踊り手との交流や長い文化の流れの中で淘汰されていくでしょう。

 

話はずれますが、私自身、ちょっとした様式の解釈の違いで、「自分のやり方の方が正しく、伝統を守っている」と争っているのを、波はあるとはいえ、この15年間、マンクヌガランでずっと見て、双方から聞かされきているので、その辺りかなり辟易していますね。そんなこと、その時の状況や、踊り手の体型、癖や嗜好にによって変わる程度のことだと思うのですが。この15年間、本人たちは気付いていないかもしれませんが、私にすれば、どちらもかなり変わってきていると見えるのですがね。多少の違いがあっても、豊かになるだけでよいではないかと。芸能なんて、その時の文化や社会情勢によって変化するのが当たり前だし、変化しなければ、生き残っていけないではないかと、私は思うのですが。もちろん、守るべきところはあるのでしょうが、それは、いがみ合ったり、人を傷つけたりしてまで守るべきことなのかと思います。まあ、私には理解できない、感情の行き違いもあるのかもしれませんし、それでも、最終的には、芸能はあるべき形に落ち着いていくのだろうと、私は考えているのですが、私はいつも「みんな仲良くやってよ」と思いながら、見ています。そんなにいがみ合っていて、醜い顔になっているよ~と思いながら。

 

話を戻します。私は、私の存在が刺激になって、みんなが成長し、もっとマンクヌガランの芸能が発展すると良いなという気持ちもありました。なので、よく、最近踊られない踊りのリクエストもしたものです。長いバージョンの踊りや、しばらく踊られていなかった男性舞踊なども、いろんな人にその存在を聞いて、リクエストしていました。ある意味、外国人であるからこそ、心おきなく、そういうことができたのかもしれません。私自身、マンクヌガランの伝統である、女性が男性荒型も踊り、女性演者だけで行われるラングンドゥリヤンという歌いながらのジャワ舞踊オペラのようなものもやりますし。今となっては、やれる人が本当に少なくて、残念です。機会があれば、ジャワの子たちにもやるようにと、かなりプッシュしているのですが、マンクヌガランの踊り手(マンクヌガラン様式舞踊を理解している人)でやる人は、やはりとても少ないですね。私が大プンドポでの練習で、男性荒型を踊ったり、ラングンドゥリヤンのメナッジンゴ(男性荒型の役)をやったりすると、タルウォ先生がいつもとても喜んでくれてました。私自身、マンクヌガラン様式の男性荒型は彼女に学んだので、きっと、Tarwo 先生は、この伝統を残したいと願っているに違いないと思い、他の女性の踊り手もいつも一緒に踊るように誘っていたのですけどね。やりたい人はすごく少ないです。

 

さて、Pakarti に戻ります。私はと言えば、Gusti HeruがPakartiの練習にいらしていた頃は、実は、私はPakartiでは、もっとガムランの演奏の練習をしたかったのですよね。それで、いつも、いろんな人の視線を感じながら、ぎりぎりまでガムランのところにいました。どんな視線かと言えば、その頃、練習に来る外国人が多かったので、みんな、演奏したい楽器があるのですが、そこに私が座って演奏しているので彼らが演奏できず、早く立って踊ればよいのにという視線、そして、Gusti Heruはじめ、踊り手側からも、みんな振り覚えていないんだから、かおりが早く立って踊ればよいのにという視線。でも、私は、絶対に8時まではガムランを演奏するんだと意地になって決めていました。

あ、Hartono先生の奥様で、舞踊の指導をされているUmi先生は、もちろん、踊りは覚えていらっしゃいますが、Umi先生は、クプラッという、踊り手に合図を出す楽器を演奏されることが多いので、やはり、踊りを覚えていて、前に立って踊る人が必要だったのですよね。

それで、Hartono先生にもいろいろ気を使わせてしまいましたね。私が難しい楽器の練習ができたら、満足してさっさと立って踊るだろうと思われたのか(実際そうなのですが)、とにかく、私には最初から、太鼓、ボナン、グンデル、ルバーブなどの難しめの楽器をやらせて、早く満足させようとしているのを感じましたね。なんだか申し訳なかったですが、本当にありがたいことです。

 

ジョグジャカルタで仕事をし始めた2014年ごろからは、仕事も忙しく、ジョグジャカルタからソロの移動も、距離的には60キロしかないですが、交通事情が悪くてとても大変で、Pakartiの練習も、基本的に日曜日しか行けませんでした。また、ジョグジャカルタで学術調査に入っていた2011年か2012年ごろから始めていたジョグジャカルタ様式舞踊も熱心にやっていたので、ジョグジャカルタ様式と、マンクヌガラン様式、ソロ様式をきちんと踊り分けられるようになるべく(これがなかなか至難の業なのです)、なるべく多く踊る機会がほしかったので、Pakartiでは、最初の1曲のみ演奏して、その後は、ずっと踊りに入るようになりましたね。この頃はすでにPakarti では、踊り以外の曲は、最初に演奏するグンディン・ボナンと、最後に演奏する短い曲だけになっていましたし。

 

ガムランの方は、それまで学んだことを忘れない程度に、自宅で先生に練習に付き合ってもらっていました。

ソロ様式舞踊も、先生のご自宅で、個人レッスンという形ではなく、一緒に練習するという名目で、練習に付き合っていただいたり。本当に恵まれた環境だったと思います。

ジョグジャカルタ様式舞踊も仕事の後、週2回程度、結構フラフラになりながらでも、レッスンしてもらいに行っていました。

そして週末はソロへ行くことが多く、月曜の一番の列車でジョグジャに戻り出勤と、自分でもよくやっていたなぁと思います。

 

あれ、また話が逸れましたね。

さて、Pakartiの練習です。

2011年、2012年ごろから来始めて、今でも継続してきている子たちが何人かいますが、彼らが本当にうまくなって、頼もしいばかりです。嬉しいことに、今では、彼らから学ぶことも多いですね。

そして、新しい若い子たちも来ていますね。すぐ横に、マンクヌガラン芸術学院という、マンクヌガランの芸術を教える学校があり、学位はとれませんが、ディプロマがとれ、夕方から授業のようで、働いている子たちが通っています。そこの子たちが、多くPakartiの練習にも参加しています。

今回参加した時、外国人留学生で、Pakartiに参加する人が減ったなぁとは感じました。でも、ジャワ人の若い子たちも以前に比べて、ガムラン演奏の練習にくる人が増えたように感じます。それでも、たまに、ぽっと、いつも太鼓をたたいている人たちが誰もいなかったりする日もあり。以前は、Hartono先生が叩いていたので、問題なかったのですが、お年を召されて、手に問題があるので、ご指導だけで演奏はされず、演奏者の数が少ないと、いくら踊り手がたくさん来ても、練習にならないのですよね。

そんな日は、踊り手で太鼓が演奏できる人が太鼓をたたいたり、私自身も叩かしていただいたりしました。私にとっては、貴重な練習機会で、逆にありがたかったりして。踊り手なので、踊りの太鼓はよくわかっていますが、実際に叩いてみると、「あれっ」となることが結構あるのですよね。

Pakartiの練習で何が良いかと言えば、練習に来る人たちの感じがとても良く、雰囲気がとても良いこと。そして、多くの踊りの練習ができることですかね。もちろん、マンクヌガランの「どちらが正しいか」争いの一端になっているなど、気になる問題点も多々ありますけれども、明るい雰囲気の中で、和気あいあいと練習できることがどんなにありがたいことか。

そんなわけで、今回の滞在中も、少し無理してでも、出来る限り水曜日、日曜日は練習に参加していました。

 日本では、私の住んでいる辺りでは練習仲間が全くおらず、東京や大阪での練習の時以外は、一人で練習するのみなので、大勢で練習できるのは、とてもありがたく、楽しいです。そして踊ったり、演奏したりしていると、心が満ちていきます。

今回の滞在でも、私にとってとても大切な時間となっていました。

 

思ったより、かなり長くなりましたね。書き始めたら、いろいろ脱線してしまいました。

今回はここまで。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

<今日の植物(家の植物シリーズ)>

f:id:Kaoriok:20190425224016j:plain

「家のミディ/ミニ胡蝶蘭たち」photo by Kaori