接心
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
しばらく前になりますが、11月8日から10日、浜松の方広寺にて、いまここ道場の接心に参加しました。のちに思い出せるよう、記録しておこうと思います。
去年の10月以来、約1年ぶり、3回目の参加です。
ジャワにいるとあまり座禅はせず、もっぱら瞑想(それもジャワでは忙しすぎてサボり気味)だったので、ちょっと久しぶりの座禅でした。
今回は無字三昧
座禅や経行の時にトライしてみるも、私には、まだまだよくわからない…。
特に2日目は、座禅三昧で足の付け根が痛くてそれどころではない感じでした。
1日目はまだ大丈夫なのですが、2日目は一日のうちで、座禅をする時間が長く、もともと股関節の固い私にはなかなか厳しい。だんだん短時間でも耐えられなくなってくる。
「無」って何だろうか。
わかりそうでわからない。深い。体感したいと思う。
今回から参禅も始めました。達磨大師から続く、老師との1対1の参禅の伝統。すごい伝統ですね。
今回の接心では、「無の器となる」「無の器となり、それを差し出す」「無の器は恵の器」といったような向禅師のおっしゃったキーワードが心に残っています。
そして、「世界の波動と同調する」ということ。
「身も心も投げ出して、お任せする(南無)」ということ。「身心脱落」
そして、「スーパー宇宙温泉」
そのように、ゆったりと気持ちよく座る。
座禅では、寸胴のように、または、天井からぶら下がっている濡れ雑巾のように、中心軸を決めて座り、腹式呼吸することが大事。
頭で考えるのではなく、腹(肚)で考える、というより感じるためだと、私は理解しています。
座禅の前や後に読経をします。うちは曹洞宗で宗派は違いますが、同じ禅宗ですので、子供のころから慣れ親しんだお経と同じものも多い。
最近気になっているのは、「南無阿弥陀仏~」と3回唱えること。
「何それ、迷信!?」と思われる方もいるかもしれませんし、私もそう思っていた部分が以前はありました。
でも、「南無阿弥陀仏」は深い!
「絶対他力」なんですよね。
最近、阿部敏郎さんと阿純章さんの圓融寺での講演会をネットで見た時に、「南無阿弥陀仏は、あなたが唱えているのではなくて、阿弥陀様があなたの中で唱えているのだ」と。
なんだか大きく納得。
話は大きく飛躍するけれども、この「南無阿弥陀仏」を唱え、合掌三拝をすると、いつも、ジャワ舞踊のガドコチョが頭にかぶるイライラハンという被り物の形状のことを思い出す。この被り物の形状の一部は、ガドコチョが自分を神の前に投げ出してお任せしたポーズを表していて、そうやって、彼は「生命の水」を得ることができた(自分の中に見つけることができた)のだという逸話を表しているということを聞いたことがある。もともと、ジャワ舞踊の衣装は影絵芝居の人形のコピーなので、本来ならば、ガドコチョの髪形をそれを表しているのだろう。
それにしても、ジャワも日本も、真実は同じだなぁと感じる。
ここの接心での楽しみのひとつは、他の参加者の方々との交流。コーヒータイム(今回はムラピ山(中部ジャワ)とマラバル山(バンドゥン)のコーヒーをお土産に持っていきました。)。
そしてシェアタイム。
「我以外皆我師」で、ハッとさせられることが多々ありました。
「残心」というのが心に残っています。
「残心」大切だなぁと思います。
投げやりにならなくなる。そこに最後まで意識を集中できる。今にいられる。
そして、方広寺のご飯はとてもおいしい!湧き水を使っているからでしょうか。それとも場の力?そして、きっと心を込めて作られているのですね。
精進料理なのに、とても満足感があります。私は、一度にたくさん炭水化物を摂取することができないので、ご飯は毎回ほんの少ししか食べませんでしたが、本当に幸せでした。米飯だけでなくお味噌汁もとてもおいしい。たくさん食べなくても、おいしいものって、少量でもこんなに満足感があるのですね~。また、食べる時に食べ物に集中して、じっくり味わって食べているのもよいのでしょうね。
最終日は、精進料理のうなぎ丼。よく出来ています。
方広寺の境内はとても広く、散策も楽しみの一つ。秋晴れで、葉の色も少し変わり始めていて、美しかったです。
奥の宮にもみんなで行きました。けっこうな上り坂を15分ぐらいだったか登ると着きます。
ここはなんだかエネルギーが違うなぁと、そういうことにあまり敏感でない私でも思います。でも、ちょっと怖い感じもします。そういう意味では、私にとっては、大神神社の御神体の三輪山に雰囲気が似ているように思います。
そして、11月23日夜から24日の朝にかけては、向禅師の祥光寺でのミニ接心に参加。この時期にしてはとても暖かく、本堂濡れ縁での夜座も気持ちよかったです。
最近、自分でもあきれるほど、自分の感情のアップダウンに振り回されっぱなし。
自己嫌悪に陥りがち。
瞑想や座禅しても、その時は良くても、それをあざ笑うかのように、いろんなものが沸き上がってきて、手を焼いています。
頑固に染みついた善悪。比較。
自分を苦しめているのは自分自身と分かっているけど、まあ、どうしようもない。
それならば、それを見つめてみるのも良いかも。
それならば、それを愛してみるのかもよいのかも。
なんだか、よく分からない終わり方になりましたが、こんなところで。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。