香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

方広寺接心(2)

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

なんだか、前回から間が空いてしまいましたが、方広寺での接心の思い出を書き留めておきたいと思います。

 

接心で、前回も今回も、とても印象に残っているのは、動いている時も、食べている時も、味わうということ。例えば、座禅の間に経行(歩行禅、叉手して一列で歩く)を行うのですが、この時は、足の曲がる感じとか、足の裏が床に着く感じとともにいる。そして、食べている時は、がつがつするのではなく、黙って、ひとつひとつ味わうように食べる。そして、そのための作法も決まっています。つまり、「いまここ」にいることの徹底かなと思います。

 

実は、普段、あまり食べているものに集中しながら、味わいながら食べておらず、それが、健康を害したことの理由の一つかなという気が、以前から、なんとなくしていたのです。それでも、いつも、携帯を見ながらとか、テレビを見ながらとかが、やめられなかったのですが。ですので、こういう機会はありがたいです。様々なことに追われながらではなく、味わって食べること、少しでも生活に取り入れたいなぁと思います。

 

接心では、毎朝5時15分から、ストレッチとヨガ、ちょっとした筋トレがありました。坐禅の時に正しくというか、楽に座るためです。そして、一日は、笑いヨガがある日も!笑いヨガは、やってみる前は、ちょっと抵抗がありましたが、やってみると、とっても楽しい!ただ笑うだけでも楽しいのですが、それだけでなく、自分の中に溜め込んでいる、様々なことを、認めながらも、解放して、温かな、そして、スッキリするような気持ちになります。心も体も健康になる感じ。そして、大勢の人とやるのがまた楽しい。指導してくださるおっさまの笑顔の魅力と指導力もすごい。笑いヨガ、いつも、もっと知りたいなぁと思います。

 

そして、マキねぇのワーク。2人ペアになってものでしたが、厳しい、嫌な言葉を投げかけると、相手の体が重くなり、優しい、愛情のある言葉をかけると、相手の体がてきめんに軽く、柔らかくなることにびっくりしました。それも、すぐにその効果が出るのです。言葉も波動ですから、どういう波動を発しているかって、重要だなぁと思いました。また、そんなにてきめんに相手に伝わるなんて、やはり、みんなに繋がっていて、同じものなんだなぁと、体感した気分です。

 

そして、もっちゃんが休憩時間に入れてくれるコーヒー。その場で、豆から挽いて入れてくれるので、とても美味しい。さすがカフェのオーナーさんだけある。美味しいものって癒しですね。

もっちゃんには、浜松駅から方広寺まで、往復とも車に乗せてもらって、本当に助かりました。この接心にスタッフとして参加されている浜松の皆さんは、本当に温かくて、また会いたいなぁと、いつも思います。

 

今回も、休憩中の参加者のみなさんとの交流が、とても楽しかったです。長い間座禅を続けてこられたこっさんやけんちゃんにも、座禅について、たくさん質問に答えてもらえて、とてもありがたかったです。また参加したいなぁと思える接心でした。

 

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方広寺本堂から見える朝日」photo by Kaori


 

休憩中の方広寺内外の散策も素敵だったので、そのうちご紹介できればなぁと思います。

 

読んで下さってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように!

 

 

 

方広寺接心(1)

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

この10月6日~8日の3連休は、浜松の方広寺という臨済宗の禅寺で行われた、いまここ道場の接心に参加してきました。その時のことを、自分の覚え書きも兼ねて書いておこうと思います。長くなるので、何度かに分けて書きますね。

 

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方広寺」photo by Kaori

 

方広寺での接心は今年の3月に続き、2度目です。3月の時は、まだまだ寒かったですが、今回は、幸い台風がそれたこともあり、良いお天気に恵まれました。日中は30度近くまで気温が上がっていたのではないかと思います。多くの木に囲まれているところとはいえ、かなり暑かったです。

 

いまここ道場の接心は、みんなが社会的な地位を持ち込まず、平等にあるという考え方から、お互いを「~ちゃん」とか、本人が決めたニックネームで呼ぶことになっています。それもなかなか素敵。ぐっと親近感がわきます。

 

接心では座禅三昧。ただ、お坊さんの修行のように、全くおしゃべりも、交流もしないのではなく、休憩時間は、休憩室でお茶やお菓子を頂きながら、参加者同士でおしゃべりや交流もでき、そういう意味では、ゆるくて、なかなか楽しいです。多くの出会いもありますし、それが楽しくて、今回の2度目の参加となりました。今回は、知った顔が多かったです。

 

禅堂では、基本的なルールを守ります。沈黙を守り、座禅の初めと終わりの合図も、柝(たく、拍子木)や引磬(いんきん、手持ちの鐘)などの鳴らしもので行われます。叉手出班・合掌帰班など、座禅をする座布団へ行くときと、そこから出る時も、決められた、歩き方などのルールがあります。

 

詳しくは、こっさん(向禅師)のブログに書かれているのを見つけました。

風のたより:坐禅入門⑧ー禅堂の作法と坐禅の仕方(解説編)

 

私は、普段から、座禅もたまにしていましたが、最近では、もっぱら、瞑想する機会の方が多かったのです。でも、座禅と瞑想は全く違い、座禅は重要だと、何となく感じていたのです。それに、読経も結構好きなのですよね。

今回の参加者は、瞑想はするが、座禅は初心者という方々も多かったので、こっさんが、座禅との違いを少し説明してくれて、とても参考になりました。

瞑想は目を瞑ることが多いと思いますが、座禅は半眼。つまり、目を開けたままの状態で、視線を1m半~2mぐらい先に落とします。瞑想に慣れていると、この目を開けたままというのが大変。気が付くと、目が閉じてしまっていたり。もっとも、座禅中、目を開いていても寝てしまうことも。私は、あまり近くに視線を落とすと眠くなってしまうので、3mかそれ以上先に視線を落とすことが多いです。

 

座禅では、いまここにいることが重要とのこと。見えているもの、聞こえているもの、感じられるものをすべて感じて、そこにいて、禅定に入っていくということでしょうか。

武士が、座禅をしていても、敵が襲ってきたら、ぱっと対応できるように、というような説明が、なぜか、とっても腑に落ちました。

そして、正しい姿勢と腹式呼吸丹田に意識を持っていくことで、禅定に入りやすいということも、なんとなく体験できたような気がします。

でも、とにかく足が痛い…。私は結跏趺坐は無理なので、半跏趺坐で座ることを心掛けていたのですけれども、30分はやはりもたずに、何度も組み替えていましたね。最後の方は、かなりやばかったかも。床に座るのがつらい人は、椅子に座って行ってもよいのですが、私は、何とかやり遂げたくて、出来るだけ半跏趺坐にしていましたよ。私の場合、足首が固いので、そこからすべての足の関節に負担が来て辛いのですけれども。

ただし、やはり、足が痛いとか、寒いとか、そういう修行のような状況の方が、今に集中できて、良いという面もあるようです。私は、雑念想念が、座禅中に流れてくることが多いですし。でも、それもとらわれずに放っておけばよいようです。こっさんも、「青空ばかりではなく、雲があったりする方が、変化があって楽しいし」と、言ってくださいましたし。

 

今回の接心は、阿部敏郎さんが2日目からいらしていたのですが、阿部さんの講演で、「座禅をしたからといって、何かが良くなるとか期待しないで。…(中略)... 座禅がゴールだから」というようなこと(一度聞いただけなので、実際に使った言葉は覚えていないですけれども)を言っていたのが、非常に印象に残っています。確かに、そうですね。いまここがすべてですものね…。直観ではなんとなくわかっても、体感できないのが悔しいけれども。でも、確かに、私自身も何かを期待して座禅や瞑想をするというより、座禅や瞑想中に、ただ全てから手を引いて、ただそこにあるという状態に浸かりたくてやっているのかなという気はします。

 

座禅中、今回初めて体験したのは、警策という棒で叩いてもらうということ。警策を持った(肩に担いだ)方が、ゆっくり周ってくるので、近くまでいらしたら、手を合わせて、打ってほしいという合図をします。そして一礼して、上体を前に倒します。そして、肩から背中にかけてを、左右2回ずつ叩いていただくのです。叩くほうの棒は、平たくなっているので、そこまで痛くはないのですが、かなり、びしっ、ズシンとくる感じでした。思っていたよりもずっと強くてびっくり。しばらくじんじんしていますけれども、だんだん、気持ちよくなっていきます。そして、叩いてもらうことで、いまに、一瞬にして戻れますしね。なかなか興味深い体験でした。

 

座禅は、本当にたくさんしました。一回は線香が燃え尽きるまでの約30分間。座禅をして経行(歩行禅)をし、また座禅に戻るということも、何度かしました。経行も、足の裏に感じる床の感じや、足が曲がる感じなどを感じるようにしていましたが、けっこう、いろいろなことに考えが浮遊していましたね。普段から、そんな風に、いろいろ取り留めなく浮かんでくる思考に囚われる癖がついているのでしょうね。

 

座禅の中でも、とても気持ちよかったのは、本堂濡れ縁での夜座と、本堂の重要文化財である釈迦三尊像の前での早朝の座禅。夜座は、夜、本堂の縁側に座って、暗闇の中で座禅をするのですが、これがとても気持ちよいのです。前回は、かなり寒かったのですが、今回は、気候も良く、秋の虫の声の合唱、星のきらめくなかで、その中に溶け込んでいくような感覚になります。本堂での座禅は、早朝ということもあり、スズメやその他の鳥たちが、盛んにさえずるのが聞こえ、また朝日が差してきていて、本当に気持ちが良かったです。自然が感じられる中での座禅が、私は好きなようです。

 

長くなるので、今回はここまでにします。

 

読んでくださってありがとうございます。

あなたにとって素敵な一日となりますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

犠牲祭(2)

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

今日は、この夏のジャワの滞在記の続きです。昨日は、8月22日の犠牲祭について書き始めました。今日はその続きです。

 

さて、マスジッドの様子を見てから、マスジッドの外にでて、警備に出ていたおじさんとおしゃべりしながら少し待つと、王宮の方から、王家の従僕、楽隊、食べ物でできた御輿(gunungan)などの行列がやってきました。

写真を中心にご紹介しますね。携帯電話で、片手で撮影していたので、あまり良い写真ではないですけれども…。

まず楽隊が入ってきました。

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

 

彼らは、兵士の格好でしょうか。

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

 

ジャワの正装をした方々

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

 

22種類のGununganがやってきました。女性と男性のシンボルだそう。最初にやってきたほうは、女性の方でしょうか。

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かうgunungan」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かうgunungan」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かうgunungan」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かうgunungan」photo by Kaori

モスクのゲートを入っていきます。

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かうgunungan」photo by Kaori

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かうgunungan」photo by Kaori

 

お供え物を担いでいると思われます。

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「犠牲祭の日に王宮からモスクへ向かう行列」photo by Kaori

ここからは、モスクの敷地内に入って撮影しました。

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「モスクの敷地内に入った行列」photo by Kaori

儀式で使われるガムラン・モンガンが演奏されながら入ってきました。

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「モスクの敷地内に入った行列」photo by Kaori

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「モスクの敷地内に入った行列」photo by Kaori

 

モスクの中にて。

これも、行列で運ばれてきたようです。

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「モスクの敷地内にて」photo by Kaori

女性の方のgununganはこちらに置かれて、守られています。

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「モスクの敷地内にて」photo by Kaori

こちらのgununganは、多くの人に取り囲まれています。祈りがささげられた後、これらの食べ物は取ってもよく、奪い合いが始まります。縁起物ということでしょうかね。

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「モスクの敷地内にて」photo by Kaori

お祈りが終わって、奪い合いが始まりました。

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「モスクの敷地内にて」photo by Kaori

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「モスクの敷地内にて」photo by Kaori

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「モスクの敷地内にて」photo by Kaori


あっという間に終わります。

スカテンの時は、もっとたくさんのgununganが出て、やってくる人も格段に多いので、もっとすごい奪い合いが繰り広げられるのですが、今回は、まだおとなしいものでした。遠巻きに見ていた私のところにも、足元に一つ飛んで来たので、拾いましたよ。

 

そして、行列は王宮へと戻っていきます。

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

Gununganの土台も戻っていきます。

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

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「王宮へと戻っていく行列」photo by Kaori

 

実は、犠牲祭の時の、王宮から出る行列を見たのは、今回が初めて。スカテンの時は、何度も見ているのですけれども。今回は、規模は小さかったですが、やはり、興味深い行事でした。ただ、この王宮はここ数年、内部抗争でもめていて、多くの行事に大きな影響があるようで、残念です。みんな仲良くできればよいになぁと思います。文化は時代に合わせてどんどん変わっていくものですけれども、形は変わっても、先人たちの精神が、脈々と受け継がれていけばよいなぁと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 









 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

犠牲祭(1)

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

ちょっと日があきましたが、この夏のジャワ滞在記の続きです。

8月22日は、イスラム教のIdul Adha、いわゆる犠牲祭で、祝日でした。

前の晩はマスジッド(モスク)から、ずっとアザーンが流れていました。(ちなみに、一日は日暮れから始まると、考えられています。)異国情緒あふれる感じで良いのですが、夜も早いうちは、ずっと子供が「アッラーは偉大なり」と繰り返し歌っていました。かわいいですし、宗教教育にもよいのかもしれませんが、子供が音程もかなり外して、叫ぶように歌っているのを大音量で延々と聞くのは、ちょっと疲れたりします。うまい人がアザーンを歌っているのなら、結構楽しめるのですけれども…。それにしても、大多数がイスラム教徒とはいえ、他の宗教の人もいるわけなので、あちこちあるマスジッドから、我も我もと大音量のスピーカーで流さなくてもよいのにと、ちょっと思います。それも、争うように、年々大きくなっていくような気もします。そんなに大きな音じゃなくても、ちゃんと聞こえるよと思います。マスジッドはたくさんあるので、スピーカーから流れる音で、町中が溢れかえります。イスラム教徒の友人はたくさんいますし、イスラム教は嫌いではないのですが、こういうところはちょっと残念かも。仕方がないので、楽しむしかないですけれどもね。

当日の朝は、イスラム教徒の方々は、コミュニティで集まってお祈りをささげた後、牛やヤギを決められた方法で殺して捧げます。肉はみんなで分けられるようです。そして、どの部分も無駄にされずに使われるようです。
動物たちは、コミュニティ内の家族それぞれが経済状況に従って、寄付したもの。オスで一歳以上であることが条件のようです。ヤギは、2万円前後、牛は20万から50万円ぐらいするそうです。ヤギは、ひとつの家族が、牛は、何家族か集まって寄付することが多いようです。この日が近くなると、街角で、売られているヤギをよく見かけます。
インドネシアに来るまでは、動物を犠牲にささげるという考え方に間近に接したことがなかったので、どう捉えたらよいのかわかりませんでした。インドネシアでは最初に行ったバリでも、犠牲にささげられた鳥などが道の真ん中に置いてあるのを見かけたりしていましたし、豚なども犠牲にささげられていました。バリの場合は、犬の場合もあるようですね。赤い犬が良いと聞いたことがあります。
ジャワはイスラム教なので、豚は不浄とされているので、捧げられることはないですが…。
動物を犠牲にささげる習慣というのは、どう始まったのでしょうね。調べたことがないのですが。犠牲祭自体は、もともとは、アブラハムが息子を犠牲にささげたことから始まっているようですね。代わりに動物をということになったのでしょうか。
私は、肉も食べるので、いつも誰かが殺してくれた動物の肉を食べているわけで、でも、こういう儀式は、まだまだ私の中では、どう捉えるべきなのか整理がつきません。気の弱い私は、やはり、その場には、居たくないと思ってしまいます。もっとも、見に行ったことはないのですし、近くでそういう場があると、遠出をしたりしてしまいます。そういうところが現代人なのですかね。昔なら、自分で動物を殺して捌いて食べることが普通だったでしょうけれども。

以前、私が住んでいる家の隣の空き地で行われることになり、ちょっと辛かったですね。そして、何日も生臭いにおいが続いていました。
話はちょっと飛びますが、私はたくさん植物を育てているので、植物の命についてもよく考えます。私にとっては、植物の命も、動物の命も同じ。ちなみに、以前は犬を飼っていました。もちろん、動物の方が人間に近いので、より感情的になり、感情移入しますけれども。でも、すべての生き物は、他の生き物を食べないと生きていけないようになっているのですよね。人間だって、死ねば、体はバクテリアや、他の動物や、植物の栄養になるのでしょうし。ウィルスや、バクテリア、他の動物に殺されることもありますし。動物たちも、他の動物、または植物を食べないと生きていけない。植物たちも然りでしょう。植物も動物も、すべての生き物はそうやって命を繋いでいる。人の目に見えるものも、見えないものも、生き物はすべて、そうやって循環しているのかなと思います。そう思うと、大きな循環の中に、私たちは組み込まれているのですね。それが大いなる自然の意思なのかなと思うこともあります。ですので、私は、食事と頂くとき、命を頂いているのだと、感謝を忘れないようにしたいと思っています。そして、普段、食事に出てくるようなものは、量の調整はしますけれども、基本的に何でも感謝していただくようにしています。(ただし、とても辛いものは舌が受け付けないので、食べられないのですけれども…)

 

さて、犠牲祭の日は、私は帰国2日前で、バタバタしていたのですけれども、朝ご飯を食べた後、少し時間の余裕があったので、クラトン(カスナナン王宮)から、大モスクまで、Gununganという、食べ物でできた御輿と、王家の従僕や楽隊や兵士たちの行列が出ることを思い出し、行ってみることにしました。ちょうど、私が着いた時は、行列が来る直前で、タイミングが良かったです。

 

まず、モスクの方へ行ってみました。

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スラカルタのマスジッド・アグン」photo by Kaori

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スラカルタのマスジッド・アグン」photo by Kaori

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スラカルタのマスジッド・アグン」photo by Kaori

私はいつもスカテンというお祭りの時期しかここには行かないので、多くの露店が出るその時との雰囲気があまりに違って、場所を間違えたかと思ったほどでした。

マスジッドでは、まだ、殺されていない牛が2-3頭いて、少し暴れていました。人々は遠巻きに見ていました。

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「犠牲祭に連れてこられた牛たち」photo by Kaori

 

すでに、10時半ごろで、犠牲が始まって、かなり時間が経っていたのですが、これから殺されてしまうのでしょうかね。他の場所では、とっくに終わっている時間なのですが。ここでも、すでに、ほとんどは殺されて処理されている最中で、大きな骨の部分は、大きな電動のこぎりのようなもので切っていて、びっくりしました。そして、たくさんのビニール袋の中に、肉が入れ分けられていっていました。これが、みんなに分けられていくのですね。

 

少し待つと王宮からの行列がやってきたのですが、それは、また明日にでも、続きを書きますね。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美しい雲

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

最近、不思議な、美しい雲を見かけることが多くあるように思います。

だから、なんだということはないのですけれども、なんだか心打たれます。

なので、シェアさせていただきますね。

 

走行している車の助手席から撮影したので、あまり良い写真ではないのですが。

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「美しい雲」photo by Kaori

 

約2週間前にも。

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「不思議な雲」photo by Kaori

これも、高速道路を降りて、停止した時に急いで撮影した写真なので、あまり良い写真ではないですけれども、空にお絵描きしたような雲ですね。高速道路上からは、鳳凰の上に人か天使が乗っているように見えたのですけれども、このころには、かなり雲の形が崩れていました。

 

そして、先週の夕焼けの雲

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「夕焼けの美しい雲」photo by Kaori

 

美しい景色を見られるのって、なんだか幸せです。

毎日、いろんな事が、私の心を去来しますけれども、目の前にある景色を楽しむ余裕を、いつも持っていたいなぁと思います。そして、最近は、いろんなストレスや不安に心がとらわれる時間が短くなって、良い気分でいられることが多くなり、いろいろ楽になった気がして、とてもありがたいです。今を味わっていると、いろんな喜びに気づきます。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

台風一過で感じたことと、朔日参り

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

私の住んでいる辺りでは、昨夜、台風が抜けていきました。そして、今日は暑いです!

台風は、ほぼ真上を中心が通っていったようです。

夕方4時ぐらいから、時折暴風が吹き始め、徐々に強くなっていき、夜10時ごろは、家が揺れるほどの暴風になりました。雨もかなり強かったです。

そして、夜11時ごろになると、雨も風もピタッと止まったのです。

台風の目に入ったのかもしれませんね。

その時の静寂といったら。何というか深みがありました。

外に出てみると、気持ちのよい、そよ風が吹いていて、秋の虫が静かに鳴いていました。時折、少し強い風と雨がパラパラする程度。月か星が見えるかもと、空を見上げてみましたが、まだ雲がかかっていて、見えませんでした。

何事もなかったような静けさ。

それまでの、暴風と雨、それらが奏でる喧騒がうそのよう。

自分の心もいつも騒いでいるけれども、こんな静けさが、実はいつもそこにあるのだということ、妙に腑に落ちました。

ジャワ舞踊でも、この静けさが大事だと思う。それがなければ、私には、深みがないように見える。たとえ、激しく動いていても、そこにある静けさを感じられる踊り手が私は好き。それはジャワ舞踊に限らず、どんな踊りでもそうかなと思います。私も10代や20代のころは、ジャズダンスやらモダンダンスやら創作舞踊やら、いろいろプロの踊り手としてやってきたけれども、いつも追求していたのはその部分だと思う。水墨画の空白部分のような静けさ。そこにすべてがあるようなスペース。ジャワ舞踊でも、そこがいつも頭にあるし、きっと、一生、私なりにそのことを大切にしながら、どう踊りで表現するのか、追求しながら踊っていくのかなと思います。

そんなことを考えながら、台風の目の中の静けさの中にいました。

 

すぐに吹き返しの風が来るかと思ったら、なかなか来ず、静けさは継続していました。それで、もう台風は過ぎてしまったのかなと思って、雨戸を開け、夜中だったけれども、玄関内にいれていた植物を外に出したりしました。

 

そうしたら、寝付き始めた、午前1時ごろ、結構、強い風がまた吹き荒れ始めました。一応、雨戸はもう一度閉めましたが、外に出してしまった植物は、もうしょうがないし、大丈夫だろうと放っておきました。朝になって確認したら、倒れている植物もありました。まあ、それほどの被害でもなく大丈夫でしたけれども。

油断大敵ですね。通り過ぎたと思って、すぐに油断するものではありませんね。

 

今回の台風は、前回の台風21号よりも、私の地域では、雨は多かったけれども、風は、少し弱かったような気もします。それでも、かなりの暴風でしたけれども。台風21号の時は、もっと植物の被害が大きかったので、今回は直撃だったけれども、まだましだったのかなと、ありがたかったです。ちなみに、台風21号の時は、私の地域の西側を通っていったはずです。近かったけれども、少し離れていました。

 

今回の台風で、うちでは、停電もせずに、何事もなかったですけれども、雨風がしのげる家があるということは、本当にありがたいことだなぁと、あらためて思いました。実は、停電は、インドネシアに住んでいた時は、しょっちゅうあったので、電気のありがたさは身にしみているのですけれども。今は、いろんなことが便利過ぎて、サバイバル能力が落ちているかなと感じることも、よくあります。

 

台風一過で、今日から10月!気分も一新したい感じです。一日ということで、恒例の近所の神社へお参りに行きました。

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「近所の神社」photo by Kaori

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「近所の神社」photo by Kaori

奥の社殿もなかなか素敵なのです。

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「近所の神社」photo by Kaori

社殿の裏には、台風のせいか、たくさんのドングリが落ちていました。

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「社殿の裏に落ちていたどんぐり」photo by Kaori

 

社殿の脇には、アゲハチョウが二羽いました。最近、アゲハチョウに縁があるかも。

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「社殿横の花にいたアゲハチョウ」photo by Kaori

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「社殿横の花にいたアゲハチョウ」photo by Kaori



この神社の境内には、素敵なお稲荷さんもあるのです。最近は、ここにもお参りするようにし始めました。

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「近所のお稲荷さん」photo by Kaori

 

もう一つ、家から1~2分のところに、高龗社という、小さなお社があり、そこはよく通るので、ちょこちょこお参りしています。どこか、もっと山の中にあったようですけれども、区画整理で、何年か前に、住宅地の真ん中に移動してきたよう。住宅地の真ん中の敷地に、いきなり、玉砂利がひかれ、最初は木の碑が建っていたと思うのですけれども、最初は、なんだかわからずに、なぜか、新興宗教か何かで、誰かが個人的に建てたのかと思い、ちょっと怖くて、避けていましたけれども、徐々に、お社としての体裁が整ってきました。説明文のある看板も出て、それで、何なのか分かったのですけれどもね。写真は撮っていないです。どういう経緯でそこに来ることになったのか、ちょっと興味があったりします。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

 

 

 

 

 

上野不忍池辯天堂の巳成金大祭

いつも読んでいただき、ありがとうございます。

 

先週末の9月22日、上野不忍池辯天堂の年一度の大祭、巳成金大祭へ行って来ました。前回行った時に、感じが良かったのと、秘仏である八臂辯才天さまが、この日だけご開帳になるということで、ちょうど、東京へ行く用もあったので、行くことにしたのです。

ホームページには八臂辯才天さまの縁起が書かれていたので、転記しますね。


秘仏ご本尊の縁起

辯天堂にお祀りされるご本尊さまは「辯才天」です。音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利益があります。琵琶を持ったお姿で知られていますが、辯天堂の辯天さまは八本の腕があり、手に手に煩悩を破壊する道具を意味する武器をお持ちになっている「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。

ご開帳は年に1日、9月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」の日です。

 

 ついでに同じページにあった、不忍池辯天堂の歴史も転記しておきますね。

 

不忍池(しのばずのいけ)辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。
こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。
昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。

 

以上、ホームページ:http://bentendo.kaneiji.jp/about からでした。

 

さて、辯天堂について見ると、ご本尊を拝むための長い列が。

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不忍池辯天堂の前の行列」photo by Kaori

 

天気は、時折雨がぱらぱら。運良く、雨が降り出したときは、屋根の下に達しました。

どうも、巳成金大祭の時は、雨が降ることが多いよう。

 

ご本尊の八臂辯才天さまは、丸くて穏やかで美しい顔。

お参りするときに、八臂辯才天像の絵が入った、しおりのようなものを頂けるのですが、その絵は、なぜか実物より細く書かれているのです。実際はもっとふくよかな感じでした。写真撮影は禁止と書かれていたので、写真は撮りませんでしたが。

 

また、巳成金大祭は、この日に金・銀・銭を紙に包んでおけば富むという故事に由来しているということで、境内のテントでは、小判のお守りや、福財布が販売されていました。

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「小判のお守りや福財布が販売されていました」photo by Kaori

 

私も小判のお守りをゲットしました!

  

大祭の日でも、だれでも参加できる、毎日のお勤め(読経)は行われていて、9時のお勤めに参加しました。狭いこともあり、あふれんばかりの人。最後の方に入ったので、後ろの方に立っていました。お経は、弁才天さまに関するお経だったのかな?私の知らないお経でした。お経は読むために貸し出しもしているのですが、すごい人でしたし、私は、読まずにただ立っていました。周りも読んでいない方が多かったですが、私の隣の男性は、大きな声でお経を読み、そして、後ろには、弁才天さまのご真言を、お経の間中、ずーっと、結構大きな声で唱えている男性がいました。

お勤めも終わりにさしかかった頃、なぜか、胃の辺りから、急激に気持ち悪くなり、立っているのもつらくなり、倒れそうになりました。多分、顔も青ざめていたのではないかと思います。このまま、この場所に立っていたら、倒れると思い、早々にお堂から出ました。お堂脇の池の脇にあるベンチで座ったり、周りを少し歩いたら、回復しましたけれども。いったい何だったのでしょうね。実は以前、全く違うシチュエーションで、同じような感じになったことはあるのですけれども…。エネルギー的な問題なのですかね。

でも、その後再び、お堂のある階段の上に上がると、やはり、ちょっと無理な感じがしたので、今日はだめなのだなと思って、池脇のベンチの辺りで、休みつつ、池のハスの葉を楽しんだり、ハトや雀などを見ていました。

 そこからの景色はこんな感じ。

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「辯天堂横の池のハスと景色」photo by Kaori

 

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「スズメたち」photo by Kaori

 

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「辯天堂を横から見る」photo by Kaori

近くに曼殊沙華も咲いていました。

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「辯天堂横の曼殊沙華の花」photo by Kaori

巳の日だったので、聖天島も開いていましたので、参拝しましたよ。

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「聖天社」photo by Kaori

 

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「聖天社」photo by Kaori

 

聖天島の中には、たくさんの石碑があります。

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「聖天島の中」photo by Kaori

そしてこの像

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「聖天島内の像」photo by Kaori

裏側は実はこんな感じでした。役行者さまだったのですね。

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役行者像」photo by Kaori

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役行者像」photo by Kaori

 

 

年に一度の上野不忍池辯天堂の巳成金大祭、ちょっと、くらくらしてしまいましたけれども、なかなか興味深かったです。行こうかどうか少し迷ったのですが、行けてよかったです。やはり、自分自身でいろいろ経験して、いろいろ見て歩くのがが、私は好きです。そして、その自由があるのに、感謝あるのみです。

この日は、夕方まで上野公園内外を散策しました。

そのことは、また機会があれば、別の記事に書きますね!

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。