天河神社とその周辺へ超特急の旅(2)~天川村と丹生川上神社下社編
いつも読んでくださってありがとうございます。
前回に引き続き、天河神社とその周辺への超特急の旅の続きです。
前回は、天河神社とその周辺での出来事を書きました。
これまで、天河神社では、公共交通機関で行っていました。あのあたりは、交通の便が悪く、天河神社周辺の徒歩圏内を回るのみで、近郊の観光をしたことがありませんでした。今回は、友人の車で行ったので、少し観光をすることができました。
天河神社で心洗われた後、車で洞川温泉の方へ行きました。思っていたより遠くてびっくり。天川村って、とても広いのですね。
洞川温泉辺りの景色の写真を撮り忘れたのですが、狭い道路の両脇に、古い、雰囲気のある建物の旅館やお店が立ち並ぶ、温泉街。なかなか風情がありました。
鍾乳洞を見ようということになり、五代松鍾乳洞へ。名水、ごろごろ水のすぐ近くにあります。ごろごろ水は、私は初めて知ったのですが、自然に湧き出ているカルシウム分を含んだ弱アルカリ性の水(軟水)なのだそう。たくさんの人が、すごい数のボトルや水入れを持って、水を汲みに来ていました。トラックいっぱいという人もざらにいました。万病に効くと信じられているとのこと。私も、少し汲んで飲んでみましたが、おいしい!水をくむための駐車場は有料ですが、水は無料。駐車場に入ると一台ごとの駐車場の脇に蛇口があって、そこで心置きなく汲むことができるシステムになっています。こういう自然の恵みを頂けるのはありがたいですね。
さて、五代松鍾乳洞です。ごだいまつではなく、「ごようまつ」と読むそう。この鍾乳洞を発見された方の名前だそうです。ちょうど、昼頃についたのですが、お昼休みの間は、鍾乳洞に入れないとのこと。そこから、昔風のトロッコ電車に乗って鍾乳洞まで行けるのですが、午後からのトロッコ電車を予約してお昼ご飯を食べに行きました。(もちろん、歩いてでも鍾乳洞までたどり着けますが、かなりの急な坂です。)
この鍾乳洞は、たぶん地元のおじちゃん、おばちゃんが管理していらして、とてもゆるい感じ。まるでジャワのよう。トロッコの時間も、早めてくれたり、鍾乳洞の出入りも、いろんな面でゆる~い感じで管理されています。
それにしても、トロッコ電車には驚きました。
運転手が乗ると、お客さんは4人。でも、脇にちょこんと乗ってしまえば、6人まで乗れるとのこと。料金は、登り300円、下り200円です。ヘルメットをかぶって乗ります。
一本のレールが通っていて、そこをトロッコ電車が登っていきます。
最大斜度34.5度という、かなりの急な坂を電車は登っていきます。ありえない斜度。楽しい~。
周りの景色はこんな感じです。
なんだか素敵な感じですね。おとぎ話のよう。
鍾乳洞の入り口近くで、トロッコ電車を降りました。私たちが午後の最初のお客さんだったので、次のお客さんのために、トロッコ電車を戻さなければならないのですが、エンジンをかけて、だれも乗らずに、自動でトロッコ電車を戻したのにはちょっとびっくりしました。そして、鍾乳洞の入口へ向かいます。ちなみに入場料は400円。
そして、ここが鍾乳洞へ入り口。鍵かかかっていて、トロッコ電車を運転してくれたおじさんが、鍵を開けて案内してくれます。
中に入ると、中は狭くて天井が低いところが、少し続きます。けっこう頭をぶつけたので、ヘルメットをがぶる意味が良く分かりました。けっこうな、探検気分です♪
すぐに、少し広いところに出ます。人の下半身のようにも見える鍾乳石が。
こちらは、まだ一本の柱になっていない鍾乳石。上下がくっつくのに、まだまだ数百年かかりそう。
こんな鍾乳石も
象の顔のような鍾乳石。象の耳と鼻のようにも見えます。
次は、子育観音と名付けられた鍾乳石。子供を抱いている観音様のように見えます。
雲龍の柱と名付けられた鍾乳石
他にも、鍾乳石が続きます。
洞窟の一番奥には、不動明王らしい像が置かれていました。
そして、役行者と名付けられた鍾乳石
そして、洞窟の出口近くには、鷲の大鍾乳石が。
鷲が頭を下にしているように見えますね。天井には翼が広がっているように見えました。
天井には蝙蝠くんもいましたよ。
15~20分ぐらいの探索だったでしょうか。洞窟内は、狭い場所も多く、登りもあり、滑るところもありましたが、冒険気分で楽しめました。出来上がるまで長大な時間のかかる鍾乳石を堪能させていただけて、ラッキーでした!
出たところには、小さなお社が
そして、またトロッコで下まで戻ります。
ちなみに、上のトロッコ駅はこんな感じ。
くだりは、後ろ向きで下るのですが、かなり急なので怖いぐらい。
この日は、夜に大阪でジャワ舞踊練習会の予定だったので、夕方には大阪に戻っていなければならず、五代松鍾乳洞観光の後は、温泉はあきらめて、帰途につくことにしました。でも、帰り道で、以前から興味があった丹生川上神社下社に寄ることに。
道中、洞川温泉辺りでは、道路わきで少し紅葉している場所もありました。
残念ながら、社殿は工事中で良く見えません。
写真では分かりにくいかもしれませんが、上の方まで屋根が続いているのが分かります。変わった造りです。
御由緒です。
この闇龗神さまに興味があったのです。別名高龗神さま。家から一番近いお社に祭られているのが、高龗神さまで、しょっちゅうお参りしています。でも、どんな神さまなのかよくわからなくて。水に関連する神様ということは知っていたのですが。
社殿の前でお参りしました。とても良い雰囲気。古い、奥ゆかしい、雅な雰囲気がしました。
隣にはご神木の欅の木が。
そして、神社内にはこんな木もありましたよ。
社務所で御朱印を頂き、対応してくださった若い方に、いろいろお話を伺いました。
まず、丹生は「にう」と読むのだそう。初めて知りました。丹生川上神社には、上社、中社、下社がありますが、実は下社が一番古く、白鳳年間に作られたのだそう。応仁の乱の時のごたごたで、一時期どこにあるのは分からなくなったそうですが、その後、発見されて、今に至るらしいです。水の神様が祭られていますね。それで、境内には、黒い馬と白い馬が飼われていました。両方とも雄でした。黒い馬は雨を降らせ、白い馬は雨を止めるのだそう。6年ほど前に、600年ぶりにこの神社で馬を飼い始めたそうです。そういえば、うちの近所の高龗社でも、昭和の初めごろまでは、飾りをつけた馬を社に奉納する行事があったそう。そんなところにも、つながりを感じて興味深かったです。
社務所に、本殿の中の写真がありました。その写真の写真を撮ってみました。
素敵ですね。6月1日の大祭では、一般人でも入れるそう。今工事中の本殿は、来年5月中には完成して、来年6月1日にはお披露目になるそう。また訪問して、本殿を見たいなぁと思います。楽しみです。
丹生川上神社下社を後にして、大阪へ帰途につきました。とても楽しく、充実した、夢のような旅でした。運転して連れて行ってくれた友人に感謝!
帰りに工事渋滞などがあり、結局帰り着いたのはぎりぎり。ふたりで、結構フラフラでジャワ舞踊練習会に行きましたよ。でも、それも楽しです。踊り始めると、また別のエネルギーがわいてくるものですね。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
天河神社とその周辺へ超特急の旅(1)~天河神社編
いつも読んで下さってありがとうございます。
10月21日、滞在していた大阪から、友人と、天河神社へ行ってきました。友人がお礼参りに行きたいということで、前々から計画していたものです。滞在時間は短かったですが、とても楽しく、心洗われる旅でした。
天河神社は、今年、縁があって何度か行っていますが、行くとなると、やはりワクワクします。
朝、頑張って起きて、4時15分ごろ、大阪の北部を、友人が運転する車で出発しました。途中でコンビニに寄ったりしましたが、ちょうど2時間ほどで、天河大辨財天社に着きました。やはり、大阪からは近いですね〜。
早朝で、とっても寒かったです。吐く息が白い!気温は5度ぐらいだったのでしょうか。
なぜ、そんなに朝早く行ったのかといえば、6時45分ごろから始まる朝拝に参加したかったから。朝拝は、朝の神様へのご挨拶のようなものでしょうか。すがすがしい朝の空気の中、神職の方や巫女さんが、供え物をささげ、神職の方が進められる儀式の中で、大祓詞を一緒に読むこともできます。神職の方が唱えられる祝詞も気持ちが良いです。あとは、辨財天のご真言や役行者のご真言を一緒に唱えます。以前、般若心経も読んだ時もあったので、その時によって、少しずつメニューが違うのかなと思います。朝拝はとにかく、とても気持ちが良いです。今回も、朝拝に参加できて満足。早起きしたかいがありました。
その後、周辺を散策。早朝は靄がかかっていましたが、とても気持ちのよい秋晴れになり、とても美しかったです。
柿坂宮司さまの先祖代々の墓地があると聞いている場所から、聖天社に、前回はなかった小さな橋が架かっていました。
その橋を渡ってみようと思い、墓地がある方の丘に登ってみました。山々にかかる靄と青空、早朝のみずみずしい太陽光があいまって、とても美しい景色を堪能しました。
残念ながら、橋は渡れずに、そこから降りましたが、良い景色が見れてラッキーでした。
そして、聖天社のある向かい側の丘に登りました。
ちなみに、聖天社の方から見た橋は、こんな感じでした。
近いうちに、渡れるようになるのでしょうかね。
そして、聖天様にお参り
そして、その奥の坂道を登りました。途中に素敵な植物が、あちこちに生えていました。
途中、木が折れて、道をふさいでいる場所も。台風で折れたのでしょうか。
開けた場所からは、とても良い景色が見れます。
そこから奥の林の方に行ってみました。船岡神社跡ということですけれども、特に何も跡がないようでした。でもとても気持ちのよい林です。
こんなかわいらしい苔もありました。
すがすがしい空気と自然、朝日を堪能して下りてきました。
そして、坪内の大銀杏の木を見に、天河神社門前の来迎院へ。
大銀杏は、紅葉にはちょっと早かったですが、やはり美しい。
銀杏も実っていました。
そして、山の神社と韋駄天社へ
この辺りも、とても気持ちが良い。
そして、禊殿の方に向かいました。
やはり、飾りが気になる。
そして、六角岩の方へ。
この辺りは工事中で、かなり景色が変わっていてびっくり。写真には撮っていないですが、禊場の方から流れてくる川の幅が狭くなっていました。そして、河原に下りられるようになっていたので、まだガタガタの石の上を通って、六角岩の比較的近くまで行きました。
紅葉にはまだ少し早かったですが、水面に色の変わり始めた木々が映り、とても美しい。
そこから、元伊勢の方へ。登っていく道のススキが綺麗です。
ずっと工事中ですが、だんだん整備されていっている感じ。
元伊勢にある岩。この後ろの渓谷にいつも引き込まれそうな気がします。
この岩の前に植えられているのは、このブログでもご紹介した、今年の秋分の日に、新宿で行われたご神事で使われた榊の木。お焚き上げされるという話だったのですが、ここに再度植えられて、まだ生きているのがうれしいです。
反対側の岩
元伊勢から降りて、禊場の方へ。
そして、その少し奥へ
禊殿まで戻り、朝日のまぶしい禊殿の辺りを後にします。
途中、鮮やかな紫色の実をたくさんつけた、素敵な紫式部の木に出会いました。
神社に戻る途中、南朝御所跡にも少し寄りました。
友人はお礼参り、私は、せっかくここまで来たので、来月の東京でのジャワ舞踊、ブドヨ公演の成功を御祈祷していただきました。2人してジャワ芸能関連のご祈祷で、神職の方もちょっと驚いたかも。
昇殿参拝は、本殿の階段の真ん中あたりに置かれた椅子に座って、ご祈祷を受け、その後、上まで昇殿して、玉串奉奠します。
本殿は今回撮影しなかったので、7月の時の写真ですが、こんな感じになっています。
やはり、昇殿すると別世界。キリっとする感じがしますし、温かみも感じます。
6月に本殿に対面する形である能舞台で、夜に瞑想させていただいた時に、柔らかな衣装と物腰の温かい方が、本殿の方から私の右横にふわっと来られた感じが何となくして、弁天様かなぁと思ったのですが、今回は同じような温かな雰囲気で、その時のことを思い出していました。私ははっきりビジョンが見えるとか、何か聞こえるということは、全くないので、なんとなく雰囲気を感じ取るだけで、それに自分で勝手に解釈するだけなのですけれどもね。でも、包まれるような温かさですね。不思議ですね。だからと言って、どうということではなく、そんなことは重要ではないのですが、とても良いエネルギーを感じる、気持ちのよい場所です。
参拝の後、なんだかとてもすっきりしました。気持ちも体もとても軽くなったよう。昇殿参拝できて、とても良かったです。そして、縁あって再度ここに来れて、とても嬉しかったです。
それにしても、天河神社周辺は、何とも言えず、気持ちのよい場所です。この後、同じ天川村の洞川温泉の方へ行ったのですが、全く雰囲気が違うのですよね。天河神社周辺の柔らかさと気持ちの良さは、特別に感じます。
この後の、洞川温泉辺りのお話は、また続きを書きますね。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
方広寺接心(2)
いつも読んでくださってありがとうございます。
なんだか、前回から間が空いてしまいましたが、方広寺での接心の思い出を書き留めておきたいと思います。
接心で、前回も今回も、とても印象に残っているのは、動いている時も、食べている時も、味わうということ。例えば、座禅の間に経行(歩行禅、叉手して一列で歩く)を行うのですが、この時は、足の曲がる感じとか、足の裏が床に着く感じとともにいる。そして、食べている時は、がつがつするのではなく、黙って、ひとつひとつ味わうように食べる。そして、そのための作法も決まっています。つまり、「いまここ」にいることの徹底かなと思います。
実は、普段、あまり食べているものに集中しながら、味わいながら食べておらず、それが、健康を害したことの理由の一つかなという気が、以前から、なんとなくしていたのです。それでも、いつも、携帯を見ながらとか、テレビを見ながらとかが、やめられなかったのですが。ですので、こういう機会はありがたいです。様々なことに追われながらではなく、味わって食べること、少しでも生活に取り入れたいなぁと思います。
接心では、毎朝5時15分から、ストレッチとヨガ、ちょっとした筋トレがありました。坐禅の時に正しくというか、楽に座るためです。そして、一日は、笑いヨガがある日も!笑いヨガは、やってみる前は、ちょっと抵抗がありましたが、やってみると、とっても楽しい!ただ笑うだけでも楽しいのですが、それだけでなく、自分の中に溜め込んでいる、様々なことを、認めながらも、解放して、温かな、そして、スッキリするような気持ちになります。心も体も健康になる感じ。そして、大勢の人とやるのがまた楽しい。指導してくださるおっさまの笑顔の魅力と指導力もすごい。笑いヨガ、いつも、もっと知りたいなぁと思います。
そして、マキねぇのワーク。2人ペアになってものでしたが、厳しい、嫌な言葉を投げかけると、相手の体が重くなり、優しい、愛情のある言葉をかけると、相手の体がてきめんに軽く、柔らかくなることにびっくりしました。それも、すぐにその効果が出るのです。言葉も波動ですから、どういう波動を発しているかって、重要だなぁと思いました。また、そんなにてきめんに相手に伝わるなんて、やはり、みんなに繋がっていて、同じものなんだなぁと、体感した気分です。
そして、もっちゃんが休憩時間に入れてくれるコーヒー。その場で、豆から挽いて入れてくれるので、とても美味しい。さすがカフェのオーナーさんだけある。美味しいものって癒しですね。
もっちゃんには、浜松駅から方広寺まで、往復とも車に乗せてもらって、本当に助かりました。この接心にスタッフとして参加されている浜松の皆さんは、本当に温かくて、また会いたいなぁと、いつも思います。
今回も、休憩中の参加者のみなさんとの交流が、とても楽しかったです。長い間座禅を続けてこられたこっさんやけんちゃんにも、座禅について、たくさん質問に答えてもらえて、とてもありがたかったです。また参加したいなぁと思える接心でした。
休憩中の方広寺内外の散策も素敵だったので、そのうちご紹介できればなぁと思います。
読んで下さってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように!
方広寺接心(1)
いつも読んでくださってありがとうございます。
この10月6日~8日の3連休は、浜松の方広寺という臨済宗の禅寺で行われた、いまここ道場の接心に参加してきました。その時のことを、自分の覚え書きも兼ねて書いておこうと思います。長くなるので、何度かに分けて書きますね。
方広寺での接心は今年の3月に続き、2度目です。3月の時は、まだまだ寒かったですが、今回は、幸い台風がそれたこともあり、良いお天気に恵まれました。日中は30度近くまで気温が上がっていたのではないかと思います。多くの木に囲まれているところとはいえ、かなり暑かったです。
いまここ道場の接心は、みんなが社会的な地位を持ち込まず、平等にあるという考え方から、お互いを「~ちゃん」とか、本人が決めたニックネームで呼ぶことになっています。それもなかなか素敵。ぐっと親近感がわきます。
接心では座禅三昧。ただ、お坊さんの修行のように、全くおしゃべりも、交流もしないのではなく、休憩時間は、休憩室でお茶やお菓子を頂きながら、参加者同士でおしゃべりや交流もでき、そういう意味では、ゆるくて、なかなか楽しいです。多くの出会いもありますし、それが楽しくて、今回の2度目の参加となりました。今回は、知った顔が多かったです。
禅堂では、基本的なルールを守ります。沈黙を守り、座禅の初めと終わりの合図も、柝(たく、拍子木)や引磬(いんきん、手持ちの鐘)などの鳴らしもので行われます。叉手出班・合掌帰班など、座禅をする座布団へ行くときと、そこから出る時も、決められた、歩き方などのルールがあります。
詳しくは、こっさん(向禅師)のブログに書かれているのを見つけました。
<風のたより:坐禅入門⑧ー禅堂の作法と坐禅の仕方(解説編)>
私は、普段から、座禅もたまにしていましたが、最近では、もっぱら、瞑想する機会の方が多かったのです。でも、座禅と瞑想は全く違い、座禅は重要だと、何となく感じていたのです。それに、読経も結構好きなのですよね。
今回の参加者は、瞑想はするが、座禅は初心者という方々も多かったので、こっさんが、座禅との違いを少し説明してくれて、とても参考になりました。
瞑想は目を瞑ることが多いと思いますが、座禅は半眼。つまり、目を開けたままの状態で、視線を1m半~2mぐらい先に落とします。瞑想に慣れていると、この目を開けたままというのが大変。気が付くと、目が閉じてしまっていたり。もっとも、座禅中、目を開いていても寝てしまうことも。私は、あまり近くに視線を落とすと眠くなってしまうので、3mかそれ以上先に視線を落とすことが多いです。
座禅では、いまここにいることが重要とのこと。見えているもの、聞こえているもの、感じられるものをすべて感じて、そこにいて、禅定に入っていくということでしょうか。
武士が、座禅をしていても、敵が襲ってきたら、ぱっと対応できるように、というような説明が、なぜか、とっても腑に落ちました。
そして、正しい姿勢と腹式呼吸で丹田に意識を持っていくことで、禅定に入りやすいということも、なんとなく体験できたような気がします。
でも、とにかく足が痛い…。私は結跏趺坐は無理なので、半跏趺坐で座ることを心掛けていたのですけれども、30分はやはりもたずに、何度も組み替えていましたね。最後の方は、かなりやばかったかも。床に座るのがつらい人は、椅子に座って行ってもよいのですが、私は、何とかやり遂げたくて、出来るだけ半跏趺坐にしていましたよ。私の場合、足首が固いので、そこからすべての足の関節に負担が来て辛いのですけれども。
ただし、やはり、足が痛いとか、寒いとか、そういう修行のような状況の方が、今に集中できて、良いという面もあるようです。私は、雑念想念が、座禅中に流れてくることが多いですし。でも、それもとらわれずに放っておけばよいようです。こっさんも、「青空ばかりではなく、雲があったりする方が、変化があって楽しいし」と、言ってくださいましたし。
今回の接心は、阿部敏郎さんが2日目からいらしていたのですが、阿部さんの講演で、「座禅をしたからといって、何かが良くなるとか期待しないで。…(中略)... 座禅がゴールだから」というようなこと(一度聞いただけなので、実際に使った言葉は覚えていないですけれども)を言っていたのが、非常に印象に残っています。確かに、そうですね。いまここがすべてですものね…。直観ではなんとなくわかっても、体感できないのが悔しいけれども。でも、確かに、私自身も何かを期待して座禅や瞑想をするというより、座禅や瞑想中に、ただ全てから手を引いて、ただそこにあるという状態に浸かりたくてやっているのかなという気はします。
座禅中、今回初めて体験したのは、警策という棒で叩いてもらうということ。警策を持った(肩に担いだ)方が、ゆっくり周ってくるので、近くまでいらしたら、手を合わせて、打ってほしいという合図をします。そして一礼して、上体を前に倒します。そして、肩から背中にかけてを、左右2回ずつ叩いていただくのです。叩くほうの棒は、平たくなっているので、そこまで痛くはないのですが、かなり、びしっ、ズシンとくる感じでした。思っていたよりもずっと強くてびっくり。しばらくじんじんしていますけれども、だんだん、気持ちよくなっていきます。そして、叩いてもらうことで、いまに、一瞬にして戻れますしね。なかなか興味深い体験でした。
座禅は、本当にたくさんしました。一回は線香が燃え尽きるまでの約30分間。座禅をして経行(歩行禅)をし、また座禅に戻るということも、何度かしました。経行も、足の裏に感じる床の感じや、足が曲がる感じなどを感じるようにしていましたが、けっこう、いろいろなことに考えが浮遊していましたね。普段から、そんな風に、いろいろ取り留めなく浮かんでくる思考に囚われる癖がついているのでしょうね。
座禅の中でも、とても気持ちよかったのは、本堂濡れ縁での夜座と、本堂の重要文化財である釈迦三尊像の前での早朝の座禅。夜座は、夜、本堂の縁側に座って、暗闇の中で座禅をするのですが、これがとても気持ちよいのです。前回は、かなり寒かったのですが、今回は、気候も良く、秋の虫の声の合唱、星のきらめくなかで、その中に溶け込んでいくような感覚になります。本堂での座禅は、早朝ということもあり、スズメやその他の鳥たちが、盛んにさえずるのが聞こえ、また朝日が差してきていて、本当に気持ちが良かったです。自然が感じられる中での座禅が、私は好きなようです。
長くなるので、今回はここまでにします。
読んでくださってありがとうございます。
あなたにとって素敵な一日となりますように
犠牲祭(2)
いつも読んでくださってありがとうございます。
今日は、この夏のジャワの滞在記の続きです。昨日は、8月22日の犠牲祭について書き始めました。今日はその続きです。
さて、マスジッドの様子を見てから、マスジッドの外にでて、警備に出ていたおじさんとおしゃべりしながら少し待つと、王宮の方から、王家の従僕、楽隊、食べ物でできた御輿(gunungan)などの行列がやってきました。
写真を中心にご紹介しますね。携帯電話で、片手で撮影していたので、あまり良い写真ではないですけれども…。
まず楽隊が入ってきました。
彼らは、兵士の格好でしょうか。
ジャワの正装をした方々
22種類のGununganがやってきました。女性と男性のシンボルだそう。最初にやってきたほうは、女性の方でしょうか。
モスクのゲートを入っていきます。
お供え物を担いでいると思われます。
ここからは、モスクの敷地内に入って撮影しました。
儀式で使われるガムラン・モンガンが演奏されながら入ってきました。
モスクの中にて。
これも、行列で運ばれてきたようです。
女性の方のgununganはこちらに置かれて、守られています。
こちらのgununganは、多くの人に取り囲まれています。祈りがささげられた後、これらの食べ物は取ってもよく、奪い合いが始まります。縁起物ということでしょうかね。
お祈りが終わって、奪い合いが始まりました。
あっという間に終わります。
スカテンの時は、もっとたくさんのgununganが出て、やってくる人も格段に多いので、もっとすごい奪い合いが繰り広げられるのですが、今回は、まだおとなしいものでした。遠巻きに見ていた私のところにも、足元に一つ飛んで来たので、拾いましたよ。
そして、行列は王宮へと戻っていきます。
Gununganの土台も戻っていきます。
実は、犠牲祭の時の、王宮から出る行列を見たのは、今回が初めて。スカテンの時は、何度も見ているのですけれども。今回は、規模は小さかったですが、やはり、興味深い行事でした。ただ、この王宮はここ数年、内部抗争でもめていて、多くの行事に大きな影響があるようで、残念です。みんな仲良くできればよいになぁと思います。文化は時代に合わせてどんどん変わっていくものですけれども、形は変わっても、先人たちの精神が、脈々と受け継がれていけばよいなぁと思います。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
犠牲祭(1)
いつも読んでくださってありがとうございます。
ちょっと日があきましたが、この夏のジャワ滞在記の続きです。
8月22日は、イスラム教のIdul Adha、いわゆる犠牲祭で、祝日でした。
前の晩はマスジッド(モスク)から、ずっとアザーンが流れていました。(ちなみに、一日は日暮れから始まると、考えられています。)異国情緒あふれる感じで良いのですが、夜も早いうちは、ずっと子供が「アッラーは偉大なり」と繰り返し歌っていました。かわいいですし、宗教教育にもよいのかもしれませんが、子供が音程もかなり外して、叫ぶように歌っているのを大音量で延々と聞くのは、ちょっと疲れたりします。うまい人がアザーンを歌っているのなら、結構楽しめるのですけれども…。それにしても、大多数がイスラム教徒とはいえ、他の宗教の人もいるわけなので、あちこちあるマスジッドから、我も我もと大音量のスピーカーで流さなくてもよいのにと、ちょっと思います。それも、争うように、年々大きくなっていくような気もします。そんなに大きな音じゃなくても、ちゃんと聞こえるよと思います。マスジッドはたくさんあるので、スピーカーから流れる音で、町中が溢れかえります。イスラム教徒の友人はたくさんいますし、イスラム教は嫌いではないのですが、こういうところはちょっと残念かも。仕方がないので、楽しむしかないですけれどもね。
当日の朝は、イスラム教徒の方々は、コミュニティで集まってお祈りをささげた後、牛やヤギを決められた方法で殺して捧げます。肉はみんなで分けられるようです。そして、どの部分も無駄にされずに使われるようです。
動物たちは、コミュニティ内の家族それぞれが経済状況に従って、寄付したもの。オスで一歳以上であることが条件のようです。ヤギは、2万円前後、牛は20万から50万円ぐらいするそうです。ヤギは、ひとつの家族が、牛は、何家族か集まって寄付することが多いようです。この日が近くなると、街角で、売られているヤギをよく見かけます。
インドネシアに来るまでは、動物を犠牲にささげるという考え方に間近に接したことがなかったので、どう捉えたらよいのかわかりませんでした。インドネシアでは最初に行ったバリでも、犠牲にささげられた鳥などが道の真ん中に置いてあるのを見かけたりしていましたし、豚なども犠牲にささげられていました。バリの場合は、犬の場合もあるようですね。赤い犬が良いと聞いたことがあります。
ジャワはイスラム教なので、豚は不浄とされているので、捧げられることはないですが…。
動物を犠牲にささげる習慣というのは、どう始まったのでしょうね。調べたことがないのですが。犠牲祭自体は、もともとは、アブラハムが息子を犠牲にささげたことから始まっているようですね。代わりに動物をということになったのでしょうか。
私は、肉も食べるので、いつも誰かが殺してくれた動物の肉を食べているわけで、でも、こういう儀式は、まだまだ私の中では、どう捉えるべきなのか整理がつきません。気の弱い私は、やはり、その場には、居たくないと思ってしまいます。もっとも、見に行ったことはないのですし、近くでそういう場があると、遠出をしたりしてしまいます。そういうところが現代人なのですかね。昔なら、自分で動物を殺して捌いて食べることが普通だったでしょうけれども。
以前、私が住んでいる家の隣の空き地で行われることになり、ちょっと辛かったですね。そして、何日も生臭いにおいが続いていました。
話はちょっと飛びますが、私はたくさん植物を育てているので、植物の命についてもよく考えます。私にとっては、植物の命も、動物の命も同じ。ちなみに、以前は犬を飼っていました。もちろん、動物の方が人間に近いので、より感情的になり、感情移入しますけれども。でも、すべての生き物は、他の生き物を食べないと生きていけないようになっているのですよね。人間だって、死ねば、体はバクテリアや、他の動物や、植物の栄養になるのでしょうし。ウィルスや、バクテリア、他の動物に殺されることもありますし。動物たちも、他の動物、または植物を食べないと生きていけない。植物たちも然りでしょう。植物も動物も、すべての生き物はそうやって命を繋いでいる。人の目に見えるものも、見えないものも、生き物はすべて、そうやって循環しているのかなと思います。そう思うと、大きな循環の中に、私たちは組み込まれているのですね。それが大いなる自然の意思なのかなと思うこともあります。ですので、私は、食事と頂くとき、命を頂いているのだと、感謝を忘れないようにしたいと思っています。そして、普段、食事に出てくるようなものは、量の調整はしますけれども、基本的に何でも感謝していただくようにしています。(ただし、とても辛いものは舌が受け付けないので、食べられないのですけれども…)
さて、犠牲祭の日は、私は帰国2日前で、バタバタしていたのですけれども、朝ご飯を食べた後、少し時間の余裕があったので、クラトン(カスナナン王宮)から、大モスクまで、Gununganという、食べ物でできた御輿と、王家の従僕や楽隊や兵士たちの行列が出ることを思い出し、行ってみることにしました。ちょうど、私が着いた時は、行列が来る直前で、タイミングが良かったです。
まず、モスクの方へ行ってみました。
私はいつもスカテンというお祭りの時期しかここには行かないので、多くの露店が出るその時との雰囲気があまりに違って、場所を間違えたかと思ったほどでした。
マスジッドでは、まだ、殺されていない牛が2-3頭いて、少し暴れていました。人々は遠巻きに見ていました。
すでに、10時半ごろで、犠牲が始まって、かなり時間が経っていたのですが、これから殺されてしまうのでしょうかね。他の場所では、とっくに終わっている時間なのですが。ここでも、すでに、ほとんどは殺されて処理されている最中で、大きな骨の部分は、大きな電動のこぎりのようなもので切っていて、びっくりしました。そして、たくさんのビニール袋の中に、肉が入れ分けられていっていました。これが、みんなに分けられていくのですね。
少し待つと王宮からの行列がやってきたのですが、それは、また明日にでも、続きを書きますね。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように
美しい雲
いつも読んでくださってありがとうございます。
最近、不思議な、美しい雲を見かけることが多くあるように思います。
だから、なんだということはないのですけれども、なんだか心打たれます。
なので、シェアさせていただきますね。
走行している車の助手席から撮影したので、あまり良い写真ではないのですが。
約2週間前にも。
これも、高速道路を降りて、停止した時に急いで撮影した写真なので、あまり良い写真ではないですけれども、空にお絵描きしたような雲ですね。高速道路上からは、鳳凰の上に人か天使が乗っているように見えたのですけれども、このころには、かなり雲の形が崩れていました。
そして、先週の夕焼けの雲
美しい景色を見られるのって、なんだか幸せです。
毎日、いろんな事が、私の心を去来しますけれども、目の前にある景色を楽しむ余裕を、いつも持っていたいなぁと思います。そして、最近は、いろんなストレスや不安に心がとらわれる時間が短くなって、良い気分でいられることが多くなり、いろいろ楽になった気がして、とてもありがたいです。今を味わっていると、いろんな喜びに気づきます。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。