今日は、11月18日に東京の北とぴあで行う公演「百花繚乱―ジャワ島の音楽と舞踊」の演目のひとつ、ブドヨ・ブダマディウンについて、いろいろ書いてみたいと思います。論文ではないので、論拠など詳しいことは示していないです。ちょっと専門的になりますが、参考として、読み物としてお楽しみいただければと思います。(私がジャワ舞踊に関して修士論文を書いたときに調べた文献を基にしています。)
ちょっと、箇条書きっぽくなってしまっている部分もありますが、ご容赦を。
ちなみに、公演に関しては、以下のブログに書きましたので、ご覧ください。
百花繚乱ージャワ島の音楽と舞踊(公演のご案内) - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
では、ブドヨ・ブダマディウン Bedhaya Bedhah Madiun についてです。
ブドヨ・ブダマディウンは、中部ジャワ、スラカルタのマンクヌガラン王宮(マンクヌゴロ家)で踊られる舞踊のひとつです。ブドヨとは、ジャワ舞踊の形式のひとつで、9人、または7人の女性によって踊られる、非常に洗練され、多くのジャワの哲学的思想を含む、ジャワの王家にとっては非常に重要な舞踊です。ブドヨ・ブダマディウンというように、形式名と個別の名前を足して呼ばれます。
まず、ブドヨとはどういうものなのかについて書きますね。ジャワのブドヨの起源は諸説ありますが、少なくともジャワのヒンドゥー王朝の時代、アイルランガ王治世時の11世紀ごろからあったとされています。ヒンドゥー時代のブドヨの踊り手は7人であり、イスラム時代になってから、9人となりました。ジャワの神話や超自然的パワーと直結しており、それ故、ブドヨは超自然的な力を持ち、王を中心とした王国の結束と平和を守るものとされます。
ブドヨは儀式とともに発展してきた舞踊で、スラカルタのカスナナン(ススフナン)王家に伝わる最も神聖とされるブドヨ・クタワンは、いまだに門外不出で、上演時や練習時にも多くの供え物が必要です。このブドヨ・クタワンが、現在残っているすべてのブドヨの母、基と言われているので、少しブドヨ・クタワンについて書きますね。
ブドヨ・クタワンの起源は諸説ありますが、スラット・ウェドプラドンゴSerat Weda Pradanggaには、イスラム・マタラム王国三代目の偉大な王スルタン・アグン(1613-1645年在位)が、スナン・カリジョゴの助けを得て創作したと書かれています。以下、要約です。
「スルタン・アグンは夜中、瞑想中にガムラン・ロカナンタgamelan Lokananta(天界のガムラン、kemanak, kethuk, kenong, kendhang, gongの5つの楽器)の音を聞いた。それは、美しく、荘厳な調べで、魅惑的な力に満ちていた。王はものも言えないほど驚いた。そのメロディーはしばらくの間、はっきりと聞こえ、空を漂っていた。彼はそのメロディーを心にしっかり刻みつけながら、神々の時代に7人の天女がガムラン・ロカナンタと歌にあわせてブドヨを踊っていたことを思い出していた。朝が来るまで王は眠れなかった。次の朝、王は王宮の音楽専門家たち(empuning karawitan)を呼んだ。王は彼らに夜、何が起こったのか詳しく伝え、ブドヨを創り、あの夜聞いたメロディーをその伴奏とする考えを伝えた。彼らが作曲を終わる前に、突然、王の前にスナン・カリジョゴ(Sunan Kalijaga、イスラム神秘主義九聖人のひとり)が現れた。彼はブドヨ音楽の創作を助け、祝福を与えた。そしてこの舞踊は神からの贈り物であり、ジャワ王の印として王家の神聖な財産とされるべきであると助言したのである。この曲はグンディン・クタワンgendhing Ketawangと名づけられた。この作品は王国の悪魔祓いの機能を持ち、繁栄、秩序、安全、富、幸福の度合いを高め、それがジャワ王の子々孫々まで続いていくものであるとされる。ヒンドゥー時代のブドヨは7人の天女の象徴として7人であったが、王は9人のブドヨ舞踊を作ることを希望し、踊り手は、彼の8人の高官(bupatih nayaka)の未婚の娘たちから、美しく優雅なものがそれぞれひとりずつ選ばれ、また、宰相(papatih dalem)の未婚の娘または孫娘から、美しく優雅であるばかりでなく、ガムラン音楽のテンポを知っており、舞踊のリーダーになれるものがひとり選ばれた。これは、クラトン(王宮)の重要な柱である高官たちとクラトンとの繋がりを強める意味があり、ブドヨ上演のたびに、王への完全なる忠誠を思い出させるのである。踊り手たちがこの舞踊の練習を始めたとき、南海に住む精霊たちの女王、クンチョノ・サリ(Kangjeng Ratu Kencana Sari, またはニャイ・ロロ・キドゥルNyai Lara Kidul)が花嫁衣裳(kampuh bangun tulak)で現れ、日が暮れた後、毎晩3ヶ月にわたって、踊り手たちにグンディン・クタワンのためのブドヨ舞踊を教えた。彼女はこの曲を大変気に入っており、この曲が演奏されるごとにそれを楽しむためにやって来るので、グンディン・クタワンが演奏されるときは、必ず完全な供え物と、曲が奏でられている間中、香をたくことが必要なのである。演奏するものたちは清くなければならない。また踊り手は、南海の女王、クンチョノ・サリが教えに来たときに着ていたような、花嫁衣裳を着なければならない。これよりのち、グンディン・クタワンのブドヨ舞踊はクラトンに代々伝わる財産となり、現在のスラカルタ王家にプソコ(宝)として伝わり、王の即位記念日の祝いに踊られているのである。」 (要約終わり)
そのブドヨを持っていることが、王の王国の長としての正統性を示し、ブドヨは、国の平安、高貴さ、尊厳を与え、強国に導くものとされています。人間の世界であるミクロコスモス(小宇宙)の中心である王が、マクロコスモス(大宇宙)との間の調和を保つために、ブドヨは、見えない害する力に対する護符として王国の平和を守り、王国内の結束を強める役目があるのです。また、舞踊だけではなく、踊り手もブドヨと呼ばれ、王のシャクティSakti(超自然的能力、神聖な力)のひとつとされていました。
現在残っている他のブドヨは、すべてこのブドヨ・クタワンを基にして、創作されました。それ故、どのブドヨも、ブドヨ・クタワンほど重要ではないものの、多かれ少なかれ、同じような役割を持っています。
9という数字は、ジャワ人にとっては一番大きな数字であり、大宇宙と小宇宙の具現化に関連して議論されます。それ故、ブドヨの9人の踊り手も、大宇宙と小宇宙が具現化されたものなのです。これは、ジャワの人が、大宇宙と人間の世界(小宇宙)を並行するものと考えている信仰に関連しています。それによると、人間の生活は、いつも、いろんな方向や星々や惑星からくるエネルギーの影響下にあります。そのエネルギーは、人間に豊かさと平安をもたらすかもしれないし、害を与えるかもしれない。それは、個人個人が、コミュニティが、そして特に国がどうあるのか、人間の生活や行動が大宇宙と調和しているかに依って決まるのです。(クジャウェン Kejawenの考え方のようですね。人は一人で生きられないという。個人的には、Sedulur papat lima pancer(とても簡単に言えば、人間は4人の目に見えない兄弟と生まれてきて、一緒に一生を送るというような考え方)といった考え方も関連しているように思います。興味のある方は調べてみてください。)
大宇宙のシンボルとしての9人のブドヨの踊り手は、9つの方向によって象徴されています。中心としての真ん中、北、南、東、西、北東、北西、南東、南西の9つです。その他に、この世界にある自然の象徴でもあります。星、月、太陽、空、大地、空気、火、風、生物の9つです。
伝統的な王国の考え方では、王はDewa(神)の子孫であり、王宮の文化は、神々の環境と同一であり、すべては神聖と考えられていました。この伝統的な王国の考え方では、人々は、国と大宇宙は並行するものだと考えていました。王の8つのSakti (Asta sakti)に中心として王自身と王宮に1つを加えて9という数字がここでも表れている。これは、ブラフマーの教義にある、世界の中心に須弥山があり、太陽、月、星々が囲んでいる、山頂には、シヴァ神がおり、それを8つのlokapala または、世界を守る神々が囲んでいる、というものと同じです。
一方、小宇宙の象徴としてのブドヨは、人間の体にある9つの穴に象徴されます。
また、体の各部にも象徴されます。
その場合、
1.Batak= 頭 考えと精神から具現化するもの
2.Endhel ajeg = 欲望 心が望むもの
3.Gulu (Jangga) = 首
4.Dhadha = 胸
5.Apit ngajeng = 右手
6.Apit wingking = 左手
7.Dndhel weton/ wedalan = 右足
8.Apit meneng/ kendel = 左足
9.Buncit = 性器
これは、完全な人間の出現を具現化するものです。
ただし、今回、上演するブドヨは、7人で踊られるものなので、両足を象徴する踊り手はいません。7人の場合、Batakは頭、Endhel ajegは欲望、Guluは首、Dhadhaは胸、Apit ngajengは右手、Apit wingkingは左手、Buncitはお尻(性器)を象徴するとされます。首、胸、お尻は、五感を司る頭に、右手と左手は欲望に準じた動きをします。
ブドヨには、BatakとEndhel ajegが二人だけ立って踊る(ほかの踊り手は座って踊る)場面がありますが、BatakとEndhel ajegの間の敵(人間自身の欲望)との闘い、そしてロマンスは、例えば善悪、左右、高低など、人生を送る上での対立や葛藤のシンボルなのです。
ちなみに、9人のブドヨが許されているのは、ジャワ王家の本家のみになります。ジャワ中部には、4つの王家があります。スラカルタに2つ、ジョグジャカルタに2つです。スラカルタのカスナナン家と、ジョグジャカルタのスルタン家では、9人のブドヨですが、スラカルタのマンクヌゴロ家と、ジョグジャカルタのパクアラム家は分家とされるので、7人のブドヨとなります。(厳密にいえば、王の称号は本家の2家だけで、分家は候というべきかもしれません。でも、マンクヌゴロ家は、インドネシア独立までは、自らが主権を持つ領土を持ち、租税を得ることもでき、いくつかの事項を除いて王と同じ権利を認められていたので、称号は王ではないとしても、王に仕えるものではなく、王と同等の立場だったのです。その意味で、日本語では王と称されることが多いです。)ただし、近年では、マンクヌゴロ家でも、新しい9人のブドヨが作られています。
ジャワの人々は、舞踊としてのブドヨを、宗教的、魔術的なもの、神聖なもの、瞑想状態に導く一つの手段、と考えていたようです。
今回のブドヨ公演でも、お供え物を準備して公演に臨む予定です。
それぞれのブドヨには、テーマがあります。ブドヨの音楽では、散文詩の斉唱が重要ですが、その歌詞から、テーマとなった物語が分かります。Dewa RuciやKarna Tandhing(ジャワ版マハーバーラタより)、Panji(東ジャワ固有の物語)などの物語がテーマになったブドヨなどがあります。また、アドバイスがテーマになったもの、王をたたえるもの、ロマンス(愛)がテーマとなったブドヨなどもあります。そして、王家にとって重要な歴史的出来事がテーマになっているものもあります。
ブドヨの踊り手は、全員同じ衣装を着、ゆっくりとした、優雅な、流れるような洗練された動きで、全員がほぼ同じ振り付けを踊り、星座(宇宙の運行)を表しているとも、戦いの隊列を表しているとも言われるフォーメーション(隊列)からフォーメーションへ移っていきます。役柄表現もクリアではなく、ストーリーやテーマを理解するのは困難です。
つまり、抽象的で象徴的な、芸術性の高い、非常に深い精神的世界がそこに広がっているのです。そして、当時のジャワの人たちの哲学が象徴されているのです。
さて、ブドヨ・ブダマディウンのストーリーも、舞踊中に斉唱される歌詞の中に記されています。それによると、16世紀後半に中部ジャワにイスラム・マタラム王朝を開いたパヌンバハン・スノパティ王Kanjeng Panembahan Senopatiと、マディウン領主娘、ルトノ・ドゥミラRetna Dumilah のロマンスが描かれています。
パヌンバハン・スノパティがマディウンを攻めた時、ルトノ・ドゥミラの父であるマディウン領主は敗走しました。そして娘、ルトノ・ドゥミラが、パヌンバハン・スノパティに対峙するよう命じられたのです。ルトノ・ドゥミラはキャイ・グマランKyai Gumarangと名付けられた非常に霊力のある剣を持ってました。
戦いの場で、パヌンバハン・スノパティは、ルトノ・ドゥミラに戦いを挑むことはなく、なんと、彼女に彼の王妃(正妻)となるように口説いたのです。ルトノ・ドゥミラはそれを受け入れます。ちなみに、その場面は、舞踊の後半に、二人の踊り手のみ立って踊る時の、剣を落とす場面であらわされています。(Batakの踊り手がパヌンバハン・スノパティ、Endhel ajegの踊り手がルトノ・ドゥミラとなります。)
そして、戦いは終わり、ルトノ・ドゥミラはマタラム王国へ行って、パヌンバハン・スノパティの妻となりました。
ちなみに、現在のジャワ中部の4つの王家は、すべてこのイスラム・マタラム王朝が分かれたもので、パヌンバハン・スノパティは、ジャワの王家の祖先です。
それから、豆知識として、衣装は、ブドヨ・クタワンのように、花嫁衣裳と同様ではないですが、マンクヌガラン王宮で、ブドヨ・ブダマディウンを踊る時は、今回の公演で使用する衣装と同じものが使われており、それが伝統となっています。衣装にもいろんな意味があるのですが、そこまでは残念ながら調べきれていないです。
ブドヨ・ブダマディウンは、マンクヌゴロ7世(K.G.P.A.A. Mangkunegara VII)時代(1916~1944在位)、マンクヌゴロ7世とジョグジャカルタ(スルタン)王家ハムンクブウォノ7世の王女、Gusti Kangjeng Ratu Timurとの結婚によって、ジョグジャカルタ王宮からマンクヌガラン王宮にもたらされました。この時代、マンクヌガラン王宮の踊り手と演奏家の何人かが、ジョグジャカルタに送られ、ジョグジャカルタ様式舞踊を学んで、マンクヌガランに持ち帰りました。そして、マンクヌゴロ7世の指導の下、ジョグジャカルタ様式の型を残しつつも、優美なマンクヌガラン様式へと昇華されました。ジョグジャカルタからもたらされた舞踊は、ブドヨ・ブダマディウンのほかに、スリンピ・パンデロリSrimpi Pandelori、スリンピ・ムンチャルSrimpi Muncar、ゴレッ・ランバンサリGolek Lambangsari、ゴレッ・モントロGolek Montroなどがあります。また、余談ですが、マンクヌゴロ7世と王妃 G.K.R Timurの間の一人娘、Gusti Nurul (G.R.Ay. Siti Noeroel Kamaril Ngasarati Kusumawardhani)は、毎週日曜日、おつきの者たちと共に、ジョグジャカルタの、G.K.R. Timurの兄(Tejokusuma)の舞踊学校(Krida Beksa Wirama)に通い、舞踊を学んでいたと聞いています。このように、マンクヌゴロ7世時代は、ジョグジャカルタとの密接な交流があったのです。そして、マンクヌゴロ7世自身も芸術に造詣が深く、王宮での舞踊練習も王自らが指導したと聞いています。また、その頃は、王族・貴族と王家に仕えるものにとって、舞踊は必須の教養だったのです。そんな歴史のもと、マンクヌガラン王宮のブドヨ・ブダマディウンは、形成されていったのです。
誤解がないようにひとつ記しておきたいのは、ブドヨ・ブダマディウンは、ジャワの深い精神性を引き継ぐ重要な舞踊ですが、マンクヌガラン王宮では、儀式で踊られることはないです。どこの王宮でも、ブドヨのほとんどは、儀式のためではないです。儀式に深く関わっているのは、ブドヨ・クタワンのみでしょうかね。以前はジョグジャカルタ王宮のブドヨ・スマンも同じような役割があったのかもしれませんが、現在では、ほとんど踊られません。ブドヨ・クタワンも、ここ数年はカスナナン王家の内紛のあおりを受けて、完全な形では上演されなくなっており、廃れていってしまうのではと心配です。
マンクヌガラン王宮では、儀式に深く関わる舞踊は実はありません。ここ2〜30年は、数奇な運命を辿ったブドヨ・アングリルムンドゥンが、儀式に関連した舞踊になってきていますが、もともとはそういう舞踊ではなかったですし、そのブドヨでなければならないことはないので。マンクヌガランは、もっとオープンで、親しみやすい王宮ですね。もともと、歴史的にも庶民のために戦い、庶民に近い王家でしたし。女性の重用も、マンクヌゴロ家が始まった時から重要視されていましたしね。なんだか、話が逸れましたね。
ちなみに、ジョグジャカルタ王宮でのブドヨ・ブダマディウンは、2種類記録に残っているそうです。マンクヌガラン王宮に伝わった方の種類は、ほぼ消滅しかけていたのですが、数年前に、その舞踊の「掘り起こし」をやっていました。ビデオとして残すための上演を見に行ったのですが、なかなか興味深かったです。記録が正確に残っていなかったようで、マンクヌガラン王宮にも、ジョグジャカルタ王宮から情報を探しに来ていらっしゃいました。「掘り起こし」された、ジョグジャカルタのブドヨ・ブダマディウンは、マンクヌガラン王宮のものと、かなり似ていましたが、マンクヌガラン王宮にはない部分もありました。ジョグジャカルタの舞踊は、テンポが遅いこともあり、入場や退場の歩きの歩幅も、スラカルタに比べて狭いので、時間がかかります。そのこともあってか、なんと、1時間半もかけての上演でした。ちなみに、マンクヌガラン王宮のものは40分程度です。もちろん、ジョグジャカルタ王宮では9人で踊られます。もう一種類のブドヨ・ブダマディウンの方は、今でもたまに上演されるので、私も何度か見たことがありますが、そちらの方はもっと短く、途中でチブロンという太鼓の入る、ジョグジャカルタの他の一般的なブドヨと似た構成だったと記憶しています。ただ、マンクヌガラン王宮と似た方のブドヨ・ブダマディウンの「掘り起こし」公演の後、(王宮内で、夜、TBYによるビデオ撮りだったこともあり、見ていた人は、たしか20~30人で、そのうち三分の一ぐらいがジョグジャに長く住んでいる外国人と、かなり少ない人数だったのですが)、ジョグジャの踊りの先生たちの感想が、こぞって「退屈、つまらない」というものだったのに、本当に驚きました。だから、廃れてしまったのかもしれせんが、ジョグジャカルタで、最近一般的に踊られるブドヨは、もっと変化に富んでいるので、そういう意味では退屈だったのかもしれませんね。私にとっては、とても、とても興味深かったのですが。そういう意味では、マンクヌガラン王宮の方に伝わっているブドヨ・ブダマディウンは、古いブドヨの形を残すものなのかもしれません。私自身は、マンクヌガラン王宮でも、ジョグジャカルタ王宮でも舞踊の練習に参加させていただき、ジョグジャカルタでは、意識的にマンクヌガラン王宮に伝わっている演目を学びましたけれども、個人的な感想は、意外に、マンクヌガラン王宮の方に、古い形が残っており、それがまだ盛んに踊られてポピュラーであるけれども、ジョグジャカルタの方では、かなり変化しており、古い形のものは、ほとんど踊られないのではないかということです。マンクヌガラン王宮に伝わり、現在でもとてもポピュラーな、スリンピ・ムンチャルも、ジョグジャカルタでは、王宮周辺でも、その存在さえ知らない人の方が多かったです。このスリンピは、ジャワのお姫様と中国のお姫様の役柄で、それぞれ2人ずつの4人で踊られるのですが、マンクヌガラン王宮では、ジャワと中国では、衣装だけでなく、動きがかなり違うのです。でも、ジョグジャカルタで、数年前に「掘り起こし」され、公演された時、ジャワと中国は衣装だけ違い、動きは全く同じ。ジョグジャカルタによくあるスリンピの形になっていたのです。おかしいと思い、何人かの年齢が上のジョグジャカルタの舞踊の先生(50代ぐらいの方々は全くこの踊り事を知らない人が多かったので、60代、70代の方々)に聞いたところ、何人かは「昔は、動きも違っていたはずだけれど…。」ということだったので、やはり、昔は、マンクヌガランのように、動きも違っていた可能性が高いかなと思います。また、今は詳しくは書きませんが、ゴレッも、マンクヌガランに古い形が残っていると思います。もちろん、マンクヌガランでは、様式を変えているので、ジョグジャカルタとはかなり違った雰囲気ですけれども、振り付けは、基本的に同じなので、古い振り付けや形式が残っているのではないかと思います。それが良いとか悪いとかということではなく、たぶん、重要視されている部分が違うのでしょうね。私にとってはとても興味深いです。もっとも、ジョグジャカルタにもいくつかのスタイルがあったようなので、その辺はもっと複雑でしょうが。なんだか、またまた話がかなりそれましたね。
詳しく書くとキリがないので、ブドヨに関しては、結論のみ簡単に書いた感がありますが、このくらいにしますね。他にもいろんな関連情報があるのですが、また別の機会に。
こういろいろ書いてみると、あらためて、ブドヨはジャワ芸能の真髄とも言える精神性を持つ舞踊だと気づかされます。このような大事な舞踊を踊らせていただけることへの感謝の念が尽きません。
王や王家と書くと、前時代的な印象を受けるかもしれませんが、私個人としては、それはすべて象徴だと感じます。結局のところ、すべては自分自身。こういう舞踊は、すべてと調和し、本来の自分自身(静けさ?)に立ち返るためのひとつのツールなのかなと、踊りこむほど、感じることが多くなっています。少なくとも、私自身は、呼吸も体も心も整う感覚を味わっています。
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。