香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

なぜ踊りに惹かれ始めたのか ~ 私の歴史/記録(1)

私自身の記録のためにも、私自身の歴史を、踊りを中心に書いていこうと思います。たぶん、不定期に、気が向いた時に、または思い出したときに綴っていくことになると思います。私はあまり昔のことを覚えていないたちで、かなり忘れてしまっていると思うので、今の私が、私の歴史だと考えている物語になるかなぁと思います(笑)。楽しんで読んでもらえたらと思います。また、何か少しでも、どなたかの役に立つことがあれば嬉しいです。例え、役に立たなくても書きますけれども(笑)。

私には、幼稚園以前の記憶が全然ありません。庭で妹をおんぶしてみたことぐらいかな。それも、幼稚園に入ってからだったかもしれません。幼稚園の時でも、辛うじて覚えているのが、初めて幼稚園バスに乗る時に不安で泣いたこと、砂場で遊んでいる時に、私が使っているスコップのようなものを、ちょっと意地悪な女の子に取り上げられたことぐらいです。その三つ編みした女の子の顔はなぜか今でも覚えています。叔母によると、私は小さいころお気に入りのタオルがあって、そのタオルを絶対に離さなかったとか。全く覚えていないです。

今は背が高い方ですが、小学校の時は、とても小さくて、引っ込み思案で、いじめられっ子でした。小学校の時の記憶も実はあまりありません。ドッジボールでしつこく集中攻撃されたことなどは覚えています。走ったりは早かったのですが、悪意を込めて飛んでくるボールが怖くて怖くて、ドッジボールが苦痛でした。いじめられたのが、今でもトラウマになっているかなと思うこともあります。人付き合いが怖い部分や仲間外れにされる恐怖が今でも残っています。子供のことですけれども、やはりいじめというのは、残酷で人を傷つけ、その影響が長く残ることもあると思います。

身体が小さかったからか、低学年の頃はいつも給食が食べきれませんでした。でもその頃は、食べきることが重要で、食べきれるまで、そこに座らされていました。たぶん、それでも給食時間内に食べきれなかったと思います。それで、一度、教室の机にパンを隠し、怖くてそれを家に持って帰ることもできず、机の中が大変なことになったことを覚えています。そのことで、ずっと自分を責めて恥ずかしいと思っていましたけど、今、こうやって書いてみると、「私全然悪くないじゃん」と思います。食べられないのに、無理に食べさせようとする方がおかしいですよね。食べられないものを返す権利だってあったはず。そんなことは小さな子供にはわかりようにないけど。こうやって書くことは、もしかしてトラウマの癒しにもなるのかなと、今気づきました。

また、子供の頃は母がとても厳しかったので、母が怖くてならず、母が私の座っている後ろを通るだけで、叩かれるのではないかと、びくっとしていたことを覚えています。あの時代は、まだまだ親が子を叩くことは普通だったのですよね。小学校高学年の時には、すでに視力が悪く、黒板が見えなかったのですが、母に言ったら怒られると思い、ずっと母に言えず、黒板の字は、先生が書く筋を見ていて、何を書いているか推測してノートに書いていました。健康診断で引っかかって眼医者に行かされ、そこでやっと母が知る所になりました。子供のころから本を読むことが大好きで、毎晩、ベットで本を読んでいたから視力が落ちたのでしょうかね。とにかく、そんな臆病な子供でした。高学年になると学習塾にも通っていたのですが、そこでも子供が講師にビンタされたりは普通だったように覚えています。今だったら大問題でしょうけど。時代は変わりましたね。

中学から、少し遠方の私立の中高一貫の女子校へ入学したので、同じ小学校から行った子は一人しかおらず、幸いそこで、いじめからはおさらばできました。また、ある時、母が急に私に対して優しくなり、母との関係も良くなりました。中学の新入生歓迎会で見た演劇部の公演に感動して、柄にもなく、演劇部に入りました。とても上下関係の厳しい部活でした。私は演技は本当に苦手で、大根役者で、よく先輩にけちょんけちょんに言われ、怒られました。特に舞台の上でしゃべるのが苦手だったのです。舞台の上だけでなく、普段の生活でも話すことが苦手だったと記憶しています。どちらかといえば、引っ込み思案で暗い子だったと思います。毎朝、早く学校に行って、図書館に通って本読んでいるような子でした。ですので、どちらかといえば、目立つ子や積極的な子たちからは、見下されるような存在だったと思います。

ただ、演劇部では踊りにも力を入れていて、踊りだけは、なぜか得意でした。それで中学2年の時に、仲の良かった友達に誘われて、文化センターのジャズダンスクラスを受講し始めたのです。ちなみに、その友達とは親友で、今でも親交があります。アメリカに行く前の友達で今でも親交があるのは彼女だけです。

そこからもあまり詳しく覚えていないのですが、そのジャスダンスの先生はスタジオを持っていて、そのスタジオにも通い始めました。その頃だったか、レベル分けのオーディションというかテストがあり、その先生が一人一人にメッセージカードで印象を書いてくれたのですが、それが私のその後の人生を変えたような気もします。カードは残っていないので、正確に書くことができませんが、私の踊りを「テクニックはまだまだだが、思わず引き込まれる。人を惹きつけることに関しては天才と言ってもよいだろう」と評してくれたのです。本当に大きな自信になりました。母もとても喜んでくれました。

その後、その先生のスタジオで、ジャスダンスやクラシックバレエの基礎、のちにタップダンスのレッスンに励みました。強いカリスマ性を持ち、魅力的で、才能に溢れ、自由な精神を持つ方でしたが、同時に非常に厳しい先生でした。また、非常な気分屋でした。私たち生徒は先生が本当に大好きだったのですが、同時に恐れてもいました。スタジオは6階にあったのですが、生徒たちで1階に集まって、恐る恐る6階までエレベーターで上がり、今日のご機嫌はどうか、先生の顔を伺っていたことを覚えています。レッスン中に下手なことをすると、蹴りが入ったりもしていました。そんな時代だったのですね。でも、学んだことは非常に多かったですし、厳しかったからこそ、みんなうまくなった面もあると思います。私は、非常にかわいがってもらい、高校2年ぐらいから、そこのダンスカンパニーでプロで踊らせてもらっていました。カンパニーの練習で遅くなって、高校の制服を着て最終電車で帰ることも日常茶飯事。帰宅は夜中12時。よくやったなぁと思います。親もよくやらせてくれましたよね。この時代のことは、また別に書くこともあるかもしれません。

学校では、相変わらずおとなしくて、どちらかといえば、見下されていたと思います。でも、それが180度変わった事件がありました。高校の学園祭で、演劇部の友人に誘われ、その頃人気だったアメリカ人歌手のミュージックビデオのコピーを踊ったのです。私は男役。その踊りの後、本当に、180度くるっと、周りが私を見る目が変わってしまったのです。本当にびっくりしました。踊りの力、芸の力というものを実感した瞬間でした。女子校なので、男子がおらず、宝塚のように女の子が女の子に憧れるということが普通にありましたが、後輩からたくさんのお手紙をもらったり、交換日記を申し込まれたりしましたね。同級生が私を見る目も見下すような感じは全くなくなり、尊重してくれるようになった記憶があります。

私が踊りに惹かれ始めたのは、人とかかわることが苦手で、どちらかといえば不遇な幼少期があり、踊りや踊りの先生に出会い、踊ることで認められるようになったという、このような道筋があったからかなぁと思います。もちろん、親のサポートも重要でした。このころはまだ人と話をするのも苦手で、話をあまりしない子だったと思います。何を話したらよいのかわからなかったというか。今の私を知っている人たちは、信じられないと言いますけれども(笑)。踊る時だけは違う自分になっていたのです。自分の中からあふれる光を表現する手段を得たのです。(それは今でも同じですけれども…。)また、踊ることによって、小さい頃は姿勢が悪かったのですが、とても姿勢が良くなり、それも自信につながったような気もします。今のように人と話すことが苦ではなくなり、話すことで自分を表現できるようになったのは、また後の出会いがあってからです。

気が向いたらまた続きを書くかもしれません。

 

拙いお話を読んでくださってありがとうございました。

 

<今日の植物(庭の植物シリーズ)>

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「今にも開きそうなカリフォルニアポピーの蕾。鮮やかな花までもうすぐ」photo by Kaori