香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

子供の頃の私からアメリカへ行く決心をするまで~私の歴史/記録(2)

先日ブログのために自分の歴史を書いていたら、あまり覚えていないと思っていた子供の頃のことを、少しずつ思い出しました。小学校の時、いじめられて辛かった思い出もありますが、楽しい思い出もたくさんありました。思い出したこと、そこから思い返して今感じること、そして、アメリカに行こうと思った流れを気が向くままに書いてみたいと思います。主に個人の記録のためですし、話が飛びまくりますし、脈絡もないので読みにくいと思いますが、ご笑読ください。

子供のころから私は動物が大好きで、いつか動物をお話しできるようになると信じていました。(いまでもある意味信じています。)本を読むのが好きだったので、夢見がちだったのかもしれません。ある時、叔母からセキセイインコの雛をもらい、なん羽か飼っていたことがあり、そのうち少なくとも一羽は手乗りにしてかわいがっていました。死んでしまったときは、初めての身近な死であり辛かったです。

思えば、小学校の時、たくさんの習い事をしていました。ピアノ、公文、英会話、水泳、体操教室、絵、習字などなど。全てずっと継続していたわけではありませんが、多いですね。自分からやりたいというより、母が選んでいたのだと思います。中学校受験のために全部やめさせられ、代わりに学習塾に通わされましたけれども。特に、ピアノは好きだったので、やめさせられて、かなりショックだった覚えがあります。でも、何年もたってから母に聞くと、「ピアノは孤独だからやめさせた」と言われ、それも一理あったかもと思います。ピアノをやっていたことは、のちにガムランを演奏する時にも少なからず役に立っています。ピアノと一緒にソルフェージュもやらせてもらっていたので、歌にも役立ったのかな。ある程度の絶対音感もありましたし。他にも詩を書くのが好きでしたね。絵や習字は苦手でした。体操教室はスキーやスケートをやらせてもらって、楽しかったのを覚えています。走るのと水泳は得意で市の大会に学校代表で出たこともあります。英会話はやっていた割には、中学に入って英語が一番苦手でした。でも、子供の頃、夕飯を食べる時に、繰り返し英語と日本語が交互に流れる物語のカセットを聞いていたせいか、耳は良く、ヒアリングは得意でした。のちにアメリカに長期間住んだので、今は英語に不自由はしませんが、今でも、教科書で学ぶ英語は全く実践的ではないなぁと感じます。

実は、小学生の時に、母にクラシックバレエをやりたいといったのですが、「お金がかかるから」という理由で却下されたのですよね。確かに今思えばお金もかかりますし、衣装づくりなどで、親に負担が大きい習い事ですよね。

思い返してみると、子供の頃は、全てに関して母が決めていました。私の着る服も、髪形も、習い事も、それをやめる時も、中学受験に関してもすべてです。また、小学校の時はテレビは週一回、決められた歌番組しか見させてもらえませんでした。着る服に関しては、高校を卒業するぐらいまでは、自分で選んだこともなく、日々のコーディネートも、おしゃれ好きの母がしていました。着せ替え人形ですね。踊ることが、初めて自分で選び取り、今も続けていることかもしれません。それでも、中学、高校の時は、成績が落ちたら踊りをやめさせると脅されていたので、頑張って勉強しました(笑)。

子供の頃から、気が利かず、空気が読めず、いろんなことに気づかない子でしたけれど、人の顔色をうかがうことが多く、人をがっかりさせたくなくて、人の意見に迎合し、自分を犠牲にしたり、後先考えない部分があったなぁと自分では思います。大人になって、すっかり図々しくなってしまいましたけれども、そんな子供の頃の感覚がたまに戻ってくることがあり、それで大きな失敗を幾度もしてきました。時と場合によるのでしょうが、人がどう思うかよりも、もっと自分を大事にしなければなりませんね。ただ、失敗も人生の良い経験になっているので、あながち悪かったとも言い切れませんけれども。でも、小学校の時、妹に「お姉ちゃんは、ずるい。私は、おばあちゃんや親戚に、喜ばせるようなことを言って努力しているのに、そういうことを全くしないお姉ちゃんが、同じように良くしてもらっている」というようなことを言われ、そんなことするべきなのかとびっくりした覚えがあるので、人に媚びるようなことを言うというアイディアもなかった子だったのかもしれませんね。なんか複雑。

気の小さな子であった反面、とても負けず嫌いな面があったと思います。こだわっていることは、絶対に負けたくなかった。なぜか「自分は他人とは違う」とお高くとまっているように見え、とっつきにくかったようです。私としては、子供の頃は「神さまがいつも私と一緒にいてくれ、何があっても大丈夫」という信仰があり、いじめられても心の支えになっていたわけですけど、そういうところが鬱陶しく見えたのかもしれませんね。(その信仰は、残念ながらその後忘れてしまったのですけれども、最近ちょっと取り戻したかも。)また、人に頼るということをしなかったですね。というか、どうやって人に頼ったらよいのかわからなかったというか。また、自分に甘えを許さない面があったと思います。(今は全くそんなことはなく、甘えまくりですが。)母には「くそ真面目で冗談がわからない」とよく言われ、ジャズダンスの先生には「もっと人に頼ることを覚えないと、かわいがってもらえないよ」と言われていました。そんなカチカチな私が踊りへの情熱のためにアメリカに行こうと決めたわけです。

先日書いたように、私は中学からジャズダンスをはじめ、高校からはダンスカンパニーで踊らせてもらっていました。いろんなイベントでも踊りましたし、一度はあるスポーツクラブのポスターモデルをしたこともあります。(電車の中吊りになりました(笑)。)ミュージックビデオに出演したことも。また、先生の代わりに文化センターやスポーツクラブでジャズダンスを教えていたこともあります。余談ですが、まだ十代の時だったので、生徒さんは全員年上で、自分の母親ぐらいの年の方も多かったです。私に年の近い若い生徒さんは「なんでこんな若造に教えられなきゃいけないの」という感じでしたが、母親のような年の方たちは非常にかわいがってくれ、レッスンの後はいつも近くのカフェで甘いものをおごってもらっていました(笑)。話を戻します。いろいろやりましたが、踊りを続けるにしたがって、もっとうまくなりたいという気持ちが強くなっていきました。

私のジャスダンスの先生は、とても中性的な魅力にあふれた女性でした。髪はベリーショートで肌は黒く焼いていました。顔は小さく、すっきりとした美しさがあり、肩幅が広く見える格好の良い服を着て、とてもおしゃれでした。男のようにも見える方で、一度、公衆トイレに入っている先生を外で待っている時、後から入っていった女性が何人も、すぐに出てきて、女性トイレであることを再確認してからもう一度入っていったのをみたことがあります。みんな、男だと勘違いしたのでしょうね。言葉遣いも男のようでした。愛情深い方でしたけれども、感情的に思ったことをズバズバいう方でもあり、私は自分の踊りをけなされて、傷ついたことも多々ありました。またレッスンはスパルタのように厳しかったです。でもかえって、「なにくそ、負けるものか」という根性がついたように思います。また、私の慢心をへし折るには十分でした。慢心すると成長が止まってしまうので、その意味ではとてもありがたかったです。先生はとてもストイックで、踊りはとてもうまく、情熱的で、舞台作りや衣装のセンスも抜群の才能あふれる方でした。また、常識にとらわれない、かなり自由な方でもありました。私には厳しくもあり、同時にとても目をかけて可愛がってもくれました。私に大きな影響を与えてくれた1人です。私がたまに、家族や親戚には理解してもらえないぶっ飛んだことをしたり、はっきりものを言うのは、この先生の影響が大きいかもしれません。

話がまた逸れますが、ジャズダンスを踊るには、クラシックバレエの基礎が必須で、私も学びましたが、とても苦労しました。私は体が硬く、筋力も弱く、それらはのちに訓練である程度解決しましたが、左足親指の関節に、多分生まれつきの異常があり、左足のつま先で回るのが難しかったのです。この問題は今でも付いてまわっており、いつもテクニックの面で苦労しています。

話を戻します。私が高校生の頃、別のダンスカンパニーから、何人かのお兄さんたちが移ってきました。今は知りませんが、その頃のダンス界はいやらしい世界で、ダンスカンパニーを主催している先生と喧嘩をしてそこから出てしまうと、どこのダンスカンパニーにも受け入れてもらえなかったのです。こういう風習は本当に嫌いです。私の先生は違って、「ダンサーは奴隷じゃないのだから、自由であるべき」といつも言っていて、それで彼らも移ってきたわけです。彼らはタップダンスもうまい方たちだったので、そこでタップダンスをはじめました。とても楽しかったです。また余談ですが、私は中学から女子校で、先生や親戚以外の男性と話をする機会が全くなかったので、まあまあ年の近い男性である彼らと何を話したらよいのかわからず、しばらく全然話せなかった覚えがあります。うぶですね。女子校というのも考え物ですね。でも、だんだん話せるようになり、その後男性とも対等に付き合えるようになりましたけれども。話を戻します。彼らはニューヨークで修行の経験などもあり、その話を聞いたりして、とても刺激を受けました。

またその頃、私の先生もニューヨークへ長期の修業に何度か行っていました。そして、ニューヨークからマイケル・ジャクソンのミュージックビデオに出ている方々など、何人も入れ替わりダンサーを連れてきたので、私たちは彼らのレッスンを受けることができました。彼らは本当に格好良く、刺激になりました。一番印象に残っているのは、マイケル・ジャクソンの「Bad」のミュージックビデオに出ていた、東洋系のダンサーです。見たことのある方はわかると思うのですが、マイケルのすぐ脇で、「神風」と書かれた鉢巻をして踊っていた彼です。チャオ・メイという中華系のオランダ人。彼の両親はもともと、中国では位の高い方々だったようですが、文化大革命でオランダに逃れたそうです。そのせいか、チャオは気品に溢れ、おまけにセクシーでした。おまけに7か国語を話せるという秀才(語学は映画から学ぶと良いよと教えてくれました)。私の大好きなネザーランド・ダンス・シアターの下部組織でトレーニングを受けたそうです。なぜあんなに格好良く、印象深く、人を惹きつける踊りができるのだろうと、私は、全身全霊で、彼の踊りを見て感じ、できるかぎり真似をしたと思います。随分前のことですが、彼の動き、エネルギー、上品な首筋の感じなど、ありありと覚えています。

チャオは実はバイセクシュアルでした。それをサラッと言い「だって、僕は女性だからとか男性だからとかじゃなくて、人間が好きだから」と言ったのに、その頃の私は衝撃を受けました。「なるほど!一理ある」と納得した覚えがあります。そして、全く抵抗なく受け入れられるようになったと思います。余談ですが、アメリカのダンサーにはゲイの方がとても多いです。私が留学したアメリカの芸術大学のダンス科では、先生も含めて、男性でゲイまたはバイではない人は2~3人だったと思います。女性もそういう人が結構いました。なぜなんでしょうね。不思議ですね。自由な魂ですね。ちなみに、私は全くのノーマルです(笑)。

また、よい先生がアメリカやイギリスから来たと聞くと東京へも高速バスに乗ってレッスンに出掛けていました。自分でもよくやったなと思いますが、学びは大きかったです。

そんなこんなで、いろんな刺激を受け、「私もニューヨークへ行って、もっと踊りを学びたい、うまくなりたい」と思ったわけです。でも実際には、すぐに行けたわけではなく、紆余曲折があり、ニューヨークではなくロサンゼルスへ行くことになったわけですけれども、その話はまた別の機会に書きたいと思います。

 

拙い話を読んでくださってありがとうございました。

 

<今日の植物(庭の植物シリーズ>

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「ドッグローズの初めての花が咲きました。清楚な花に感動です」photo by Kaori