訃報と思い出 ~ Pak Prapto
このブログにご訪問頂きありがとうございます。
今朝、母の墓参りに行き、その後、椿大神社へお礼参りに行く途中、ジャワでお世話になった方の訃報が入ってきました。
また会えると思っていたので、とても驚き、そして悲しい。
Suprapto Suryodarmoさん
私は、Pak Praptoと呼んでいました。
74歳だったそう。
ソロを始め、世界中の踊り手や音楽家、その他の方々に大きな影響を与えた人物、踊り手。
そして、私には大きな愛を持った人物に見えました。
慈愛と言った方がよいですかね。
私は、たぶん最初に会ったのは、2003年に留学し始めた直後だと思います。
その当時のことはあまり覚えていないのですが、彼の家であり、パフォーマンスも多く行われた素敵な場所、ルマ・プティへ様々なパフォーマンスなどを行ったときなどに、時々、お会いして、挨拶する程度でした。
また、その頃の、ソロの芸術大学で見かけるコンテンポラリーダンスの作品は、彼の作品に似通ったものがすごく多くて、とても影響の強い人なんだなぁと思っていたことを覚えています。
そして、私がソロで住んでいた貸家の隣家にも、よく、ヨーロッパの方々(多くはドイツ人だったと思います)が、Pak Praptoのところに来るためだけにやってきて、数ヶ月も滞在していました。詳しいことは聞かなかったので分かりませんが、Pak Prapto のもとで瞑想などをしていたようです。
彼はスピリチュアルリーダーでもあるのだなぁと思ったものです。
Pak Praptoと再び縁ができたのは、私がムラピ山の村、Tutup Ngisorへ行くようになってから。
そこで何度もご一緒させていただきました。
同じ家に泊めていただいていたので、いろいろお話ししたものです。
「日本人で、僕と怖がらずに話すのは君だけだよ」と何度も言われたのを覚えています。
「え~。そんなことはないでしょう」と返したのですが、あまり日本人と、親しく長く話したことはないそうで。(そんなことはないと思うのですが、なぜかそう言っていらした…。)
Pak Praptoの周りにいつもたくさんの人がいて、外国人も多いのを見ていましたし、私にとっては全く怖い人ではなく、親しくお話しさせていただいていたので、とても意外に思ったのを覚えています。
私は、アメリカにいた時の癖で、どんな人に対峙しても、へりくだることも持ち上げることもなく、平等な、対等な人間として接するからでしょうかね。まあ、相手にもよりますが、Pak Praptoは、それを受け入れてくれる人でしたから。
他のフェスティバルやアートイベントでも、結構ばったりお会いすることも多かったです。
また、一緒に飛び入りで、即興で踊ったことも何度かありました。
(昔取った杵柄で、私も即興で踊ることは好きですから…。)
そして、とてもスピリチュアルな方。
彼の踊りは、いつも祈りでした。
彼が踊ると、そこは祈りの場に変わりました。
また、私の尊敬するジャワ舞踊の大御所で、このブログでも以前ご紹介した、ダルヨノ先生も、「Pak Praptoは、本当にすごい。彼から学ぶべきだ。」と言っていたのが、とても印象に残っています。
私は、彼に学んだことがあるわけではなく、たまにあって話す程度でしたが、それでも、とても良くしていただきました。
彼が関係しているフェスティバルなどに何度も誘ってもらい、踊らさせていただきました。
彼自身は、伝統的な踊りを踊ることはなかったですし、彼の周りも、コンテンポラリーや即興で踊る人たちが多かったですが、私が伝統的な踊りを踊ることをとても尊重してくれ、それを生かしてくれ、引き上げてくれる人でした。
本当に多くの人を引き上げてくれる人だったなぁと思います。
それで、彼を慕っている人たちが、世界中にたくさんいるのでしょうね。
私が最後に会ったのは、10月初め。
私は、彼の人となりがとても好きでしたし、以前、ジャワ人の世界観についてインタビューをさせていただいたこともあり、私がジャワへ行く時は、特に会う予定がなくても、よく連絡していました。6月末から7月にかけてジャワへ渡航した時も、「ジャワへ来ましたよ」と連絡したのですが、Pak Praptoからは、「いまヨーロッパに3か月来ていて、9月末までいないよ」と返事が。
ああ、会えないなぁと思っていたら、9月末に、たまたま見に行ったソロ市役所の広場でのあるコンサートで、ばったり会いました。彼は出演者だったのですが、コンサート前に客席に座っていらしたので、ひとしきりお話ししました。
なんだか、とっても嬉しかった。
その時に、10月半ば過ぎに、東ジャワのクディリの聖なる洞窟であるフェスティバルに出演しないかと誘っていただきました。日本に帰る直前でしたが、日程は土日でしたし、即答でOKしました。後日、そのフェスティバルの打合せのために、ウィスマセニという、ソロの芸術大学の隣にある、芸術家たちがたむろする場所で待ち合わせ、お会いしたのが最後になりました。
白いシャツに茶色のベスト、茶色のシルクハットのようなものをかぶっていたような記憶があります。とてもダンディな感じでした。
ダルヨノ先生はじめ、多くの芸術家もそこにたむろしていらして、「専門家たちの前で話すのは恥ずかしいからさぁ」と言いながら、カフェからプンドポの方に移動。そこで打ち合わせしました。
その時、打合せが終わるころ、なぜか、Pak Praptoが私の顔を覗き込むように、何かを確認するように、何度も、繰り返し、まじまじと見るのです。そんなこと、今までなかったので、「何か?」と聞くと、「君、本当にジャワ人になったねぇ」と。
「以前は、まだ日本人らしさが残っていたけれども、今は全然残っていない」と。
それは、誉め言葉と受け取り、それはそれで嬉しかったのですが、私は、実はPak Praptoは、別のことを言いたかったんじゃないかという気が、その時にしていたのですよね。
私を見て、何が見えたのだろうかと。私自身、ここ1~2年でどんどん変わってきているのを実感しているので、Pak Praptoは何を感じたのだろうかと。
まあ、すべては私の想像のストーリーですけれども。
最後に、カフェで、Pak Praptoが食べていたマンゴーを食べきれないからというので、横からつまんでいただき、そのマンゴーがとてもおいしかったのが印象に残っています。
さて、クディリでのフェスティバルは、久しぶりにPak Praptoとご一緒できると楽しみにしていたのですが、彼はいらっしゃれなかったのですよね。
もともと糖尿病を患っていらしたのですが、ヨーロッパに3か月いる間に食生活が乱れて、悪化したらしく、お医者さんから、今は遠出をしてはいけないと、ドクターストップがかかったということで。
とても残念でしたが、そのフェスティバルに参加したことは、私にとって、とても素晴らしい経験となり、多くの良い出会いがありました。
クディリからソロに戻った後、お礼とお見舞いのWhatsApp (WA、日本のlineのようなメッセージアプリ)を送りました。彼からの返信は、にっこりマークや、キスマーク、ハート、虹のマークなどを多用する、とてもかわいいもの。「こちらこそ、参加してくれて、とても感謝しているよ。僕は大丈夫、元気だよ」とのこと。
「私は日本に戻るけれども、また1月にジャワに来るから、その時に、会いましょう」という私のメッセージからのPak Praptoの返信は、
「じゃあ、また会う時まで」
でした。
11月の半ばにも、なぜかメッセンジャーの方に連絡が来て
「元気ですか~?」
「元気ですよ!」
という、軽いやり取りを交わしたばかり。
そして、最近も踊っていらしたようですし。
WAでは、その人が、最後に接続した時間が分かるのですが、先ほど見てみると、Pak Praptoが亡くなったとされる時間の30分ほど前まで、WAをチェックしていたよう。
そして、Facebookでも、昨晩、盛んにいろいろアップしていらしたので、本当に急に亡くなられたのだと思います。
亡くなられたのはとても寂しいですが、彼の愛は永遠に残っていますね。
そして、もう今は解放されて、自由に踊られていることでしょう。
今日、椿大神社へ参拝して、参道途中にある、高山土公陵や、その隣の地球の上に猿田彦さまが乗っている像のあたりで、なぜか「ああ、ここ、Pak Praptoの雰囲気」と思いました。
美しい木々と自然があり、光があり、愛があり、祈りがあり。
そういうものを大切にされていた方のような気がします。
Pak Prapto 安らかに。
そして、ありがとうございました。
そして
「じゃあ、また会う時まで」
読んでくださってありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。