今日は 私の歴史/記録シリーズです。自分の記録のため、そして、もしかして誰かの役に立つ情報かもしれないと思い書いています。前回は、ロサンゼルスで起きた暴動の時の思い出を書きました。これまでの同じカテゴリーの記事は、以下からお読みいただけます。↓
私の歴史/記録 カテゴリーの記事一覧 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~
さて、私は、カリフォルニア芸術大学(California Institute of the Arts 、通称CalArts)の舞踊科(School of Dance)入学を目指していたわけで、そのために必要なTOEFLのテストを日本にいた時から何度か受けていました。でも、なにせ、英語が一番苦手な科目だったため、なかなか良いスコアを取れずにいました。サンタモニカ・カレッジ(サンタモニカのコミュニティ・カレッジ)に通っている一学期の間も、何度かTOEFLのテストを受けた覚えがあります。当時、CalArtsへ入学するために必要なTOEFLのスコアは550点。舞踊の実技試験は受かっていたので、あとはTOEFLだけだったのですが、どうしても550点まで達しないのです。ぎりぎりまでテストを受け続けましたが、535点しか取れませんでした。
それで、Cal Artsのアドミニストレーションへ行き、それでも入学させてくれるか、聞いてみることにしました。そうしたら、学部長(dean)に聞いてみるといってくれました。すべて、学部長次第なのだそうです。学部長がオーケーを出してくれて、無事入学できることになりました。
その時に学んだのは、何でもだめだと思わずに、とにかく聞いてみる/頼んでみること。意外に簡単に通ったりするものです。自分が思っているより、全然重要なことではなかったりするのです。後日談ですが、私が入学した次年度とその次の年、台湾でも大学のオーディションを行い、台湾からほとんど英語が話せない学生を受け入れていたので、英語力は、実は全く問題にされていなかったのです。まあ、芸術大学なので、芸術に関する能力の方が重要なのでしょうね。しばらくすれば慣れて、英語だって話せるようになりますし、英語で論文を書くわけでもなかったですから。
それで、アメリカへわたって1年後の9月に、晴れてCalArtsの舞踊科に入学することができました。CalArtsは、ロサンゼルス市の北、ロサンゼルス郡サンタクラリタ市のバレンシアにあります。有名な遊園地、シックス・フラッグ・マジックマウンテンのすぐ近くです。郊外の、のんびりした場所でした。私は、その頃、ロサンゼルス市のウエストウッドに住み、ルームシェアをしていました。その辺りは、日本のスーパーマーケットも近くにあり、日本の食材は、ほぼすべて手に入り、便利な場所だったので、そこから、車でCalArtsまで、通うことにしました。
5番のフリーウェイ(無料の高速道路)の近くに住んでおり、CalArtsも同じフリーウェイの脇にあったので、毎日フリーウェイを使って片道30分を通いました。アメリカは道路が広く、フリーウェイも何車線もあって、快適。朝は、郊外から都市へ通勤する車が多くて渋滞していましたが、私は逆に都市から郊外へ朝向かうので、すいすいいけました。帰りも渋滞とは逆方向で快適でした。
CalArtsへ入学した時、学部長と個人面談がありました。その時のダンス科の学部長は、クリスティン・ローソンという、黒人の女性で、なかなか迫力のある方でした。ちなみに、この大学では、先生たちも全員ファーストネームの呼び捨てで呼んでいたので、私もクリスティンと呼んでいました。みんな平等という感じで、とても新鮮だったことを覚えています。そういう意識を植え付けられたというか。今でも、上下はなくみんな平等だと考えています。そうすると、どんな人でも対等に付き合えるように思えます。
さて、クリスティンと初めて面談した時、何を話したのか、あまり覚えていないのですが、そこで、今につながる出会いがあったのです。ジャワ舞踊との出会いです。
クリスティンが、「うちには、ジャワ舞踊を教えている先生がいて、彼女に今度日本人が入ってくると伝えたら、彼女はあなたにジャワ舞踊をやってほしいと誘っているわよ。どう?やってみたら?」と言うのです。その時の私は、ジャワのジャの字も知らないくらい、ジャワのことは何も知らず、せっかく、モダンダンスを学ぶためにアメリカに来たのに、なんでジャワ舞踊と思い、「そのうちにその授業も受講するかも」という感じて、適当にお茶を濁していたと思います。でも、その時からずっとジャワ舞踊というのが記憶に引っかかっていました。その後、どのようにしてジャワ舞踊を始めたのかは、また別の機会に書きますね。
CalArtsのダンス科では、それぞれの学生に、メンターと呼ばれる担当の先生がいて、様々な相談に乗ってくれていました。私のメンターはティナ・ユアンという台湾出身の先生。ニューヨークのアルビン・エイリー・アメリカン・ダンスシアターという非常に有名なダンスカンパニーの有名ダンサーだった方。とても愛情深い方でした。
そうして、私は、ついに目指していた大学に入ることができ、恵まれた大学生活を送り始めました。とても刺激的な大学生活が待っていたのです。
長くなるので、今回はここまでにしますね。
あ、余談ですが、自分自身の名誉のために。英語には苦労していた私ですが、アメリカで永く生活できたため、今は、英語には苦労しなくなりました。自慢になってしまうかもしれませんが、10年ぐらい前に一回だけ受けたTOEICテストも、990点満点中975点取りました。対策は、TOEIC 対策問題集を一冊買ってやってみただけ。問題集のテストでも900点は超えていましたけれど、まさか975点とは。これには流石にびっくりしましたけど。それでわかったのは、私は教科書などで学ぶ英語には、全く向いておらず、実践的に、感覚で学ぶことに向いていたということ。ここからわかったことは、これは全てのことに当てはまると思うのですが、一つの方法がダメでも、他の方法で大きな成果を出すことも可能だということ。その見極めと模索が大事なんだなぁということ。そして、人間は、どんなことに対しても大きな可能性があるということです。
今まで、私の歴史/記録シリーズは、時系列に沿って書いてきましたが、今後、時系列からは外れ、思いついたことから書いていくことにしますね。
読んでいただき、ありがとうございました。
あなたにとって素敵な一日となりますように。
<今日の植物(庭の植物シリーズ)>