香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

光明そのものの生命

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

なんだか、ここのところ、なぜか、心乱れることが多いです。

最近、ちょっと、人の悪意というものを、感じる機会が多かったからかもしれません。

体調を崩し気味だったからかもしれませんし、いろいろ不安に思っているからかもしれませんし、何の理由もなく、ただ心乱れているのかもしれません。

 

自分で自分の自我が手に負えなくなっている感じ。別に、心乱れることが悪いこととは思いませんが、それでいろいろ苦しくなるのは、身体にも本当に良くないなぁと実感しています。それで、さんざん自分の身体を痛め付けてきましたからね。

 

それでも、よく思い出すのは、小学生の時に、暗記するほどよく読んだ言葉の一節(ちょっとうろ覚えですけれども。)

 

「…覚めてみれば…光明そのもの、生命そのものにして赫灼として照り輝かん…」

 

小学生の頃は、素直にそれを信じていました。人間というのは、いろんなものに悩まされ、それに没入してしまうけれども、それは幻想で、覚めてみれば、実際は、光明そのもの、生命そのものしかないと。

これは、生長の家谷口雅春さんの書かれた、『甘露の法雨』の一節。私が小学校の頃は、生長の家が出版していた子供向けの雑誌を、両親が私に読ませてくれたので、そこで、『甘露の法雨』も知りました。『甘露の法雨』は、小学校の頃にいじめられっ子で苦しかった私は、本当によく読んで、ほぼ暗記していました。私にとっては救いでした。その後も節目節目には、読んでいたと思います。そして、今でも小さなものを、お守り代わりに持ち歩いています。でも、そういえば、何年も読んでいませんでした。

 

小学校の頃は素直に信じていましたけれども、世間の波にもまれるにしたがって、ただの比喩かなと、いう風に感じるようになっていったと思います。

そして、日本は、宗教に対する偏見と拒絶感が半端ではない。私は、いろいろ海外を渡り歩きましたけれども、日本での宗教や信仰(とくに新しいもの)に対する偏見はちょっと異常だと感じます。

私自身は、生長の家の活動に参加したことは一度もなく、雑誌やお経を読む程度で、生長の家は宗教というより、考え方、哲学かなぁと思っていましたけれども、やはり、普通に友人や、親戚でも、そのことについて話せる雰囲気ではなかったですね。世間的には、怪しい新興宗教のひとつと考えられていたようですし。書かれていることは、頭で考えてわかるような事でもないですしね。直観的にそうだろうなとは思えますけれども。そんなこともあり、また、日本を離れたこともあり、徐々に生長の家のような考え方から離れていったように思います。

余談ですが、私は中学からプロテスタントの学校に行ったので、聖書の勉強をしましたし、縁あって正教会のクリスチャンだったこともあったのですが、キリスト教にも、素晴らしいところはたくさんあるけれども、罪を強調するところに、ちょっと違和感を感じていましたね。

 

話を戻します。

そして、アメリカやジャワで、いろんなことが起こり、自分がつくづくいやになって、もう自分には何の価値もない、もう死んでしまった方がましだと、思いながら、長い間過ごしてきました。でも、父よりは早く死ぬわけにはいかないなと。私の母が、その両親よりも早く亡くなったので、その時の母の両親の悲しみようを見ていたからです。そんなわけで、鬱々としていましたね。でも、私はプライドが高いので、ほんの1~2人の人にしか、そのことを打ち明けていませんでしたし、そのことは、普段はおくびにも出しませんでした。

おかげさまで今は抜け出すことができたので、こうして書いていますけれども(笑)

でも、同時に、その間、ずっと落ち込んでいたわけでもなく、ジャワで、これ以上ないくらい、踊りも、ガムラン音楽も学びました。論文も書きましたし、本当にいろんな素晴らしいことも起きました。だから、反面では生きる気満々だったのだと思います。ご飯もちゃんと食べていますし、身体は素直に生きたいと思っていたのですね。でも、精神というのは厄介ですね。

 

今は、結局、私というのは、作り上げた幻想の塊であって、実態はどこにもないものだと思うのです。

でも、起こることを、「こうあるべき」という勝手な指針で解釈して、そこで出来上がった幻想で、自分自身を傷つけて、苦しんでいるだけなのかなと思います。

 

ジャワからたまに日本に帰ってくると、父はもう定年退職していましたから、時間がたくさんあって、いろんな精神世界の本を読んでいました。もともと興味があったのでしょうね。そして、私は、その父の本棚から、気になる本をいくつか借りて読んでいました。そして、多くの人が、同じようなことを書いていたのです。そこから、子供の頃、読んだ生長の家の本の一節などを、ちょこちょこ思い出すようになりました。そして、それらは比喩じゃなくて、真実だったのだと気付くようになりました。なんだか、長いまわり道をして戻ってきたような感覚。それでも、そこに書いてあることは、頭で理解できるような事ではなく、直感的に、これは真理なのだろうと感じることで、理解できないことは多々あるのですけれども(笑)。

 

父は片っ端から読み漁っていて、多くの本が自宅にあったので、私も、全部ではないですが、国内外の著者の、多くの本を読みました。それぞれの本から学ぶことは多かったです。最初は理解できなくても、いろんな人が、言葉を変え品を変え書いている、同じことを読んで、徐々に理解が進んでいった感じ。その中でも、私が一番ピンと来たのが、阿部敏郎さんの本。

出会ったのは、たぶん、3~4年ぐらい前でしょうか。

阿部さんのブログも、ちょくちょく読んでいます。

 

それから、徐々に、いろいろ楽になりました。

 

それでも、やはり、心乱れたり、怒りが湧いたり、鬱々とする考えが湧いたりします。

でも、それは人間であれば、仕方ないのかな。

以前と変わったことは、引きずらなくなったこと。

ただ、それは夢のようなもので、覚めてみれば、光明そのもの、生命そのものということを忘れずにいたいなぁと思います。

 

ちょうど、ジャワの影絵芝居のように。

張られた白い布(スクリーン)の上では、いろんなことが起こる。そこで繰り広げられているものは、ただ、作り上げられた、時に甘美な、時に滑稽な、時に残酷な物語。でも、実際は影、作り物に過ぎず、実体はない。ちょうど、私たちが思考で映し出している影のように。でも、それを映し出している光は、ただそこにあり、輝く生命そのもののように見える。

そして、同時に、思い煩っていることって、その場にないことなのですよね。必ず、過去のことか、まだ起きていない未来のことか。気付いてみると、今そこには何もなかったりして…。

なんだか、うまく説明できませんけれども…。

 

そして、最近気づいたことは、生命は喜びそのものだということ。

そして、私たちは、本来は、その喜びを、自由に表現し、無限に受け取り、自由に、思い通りに生きることを許されているのだと思います。そして、あるがままで素晴らしいのだと思います。仏典の臨済録にも書かれていますよね。

でも、それを自分に許すのって、ちょっと難しいなとも感じたりして…。

自分自身、いろんな固定観念にまみれすぎているように、思います。

 

なんだか、今日は、自由に、思いつくままに書いてしまいました。

こういうことを書くと、怪しいとか、変だとか思われるのかもしれませんが、まあいいかな。

人のためではなく、自分のために書いているので。

みんな自由に生きていければなと思います。

 

読んでくださってありがとうございます。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

今日、ちょっと気分が下がり気味で歩いていたら、はっと魅かれた花の写真を載せますね。私は、いつも、花や、生き生きした植物たちに元気をもらっています。彼らは、そこにただあって、すべてを受け入れ、凛としているのが美しいと思います。

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