香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

ジャワ舞踊・ガムランとの出会い ~ 私の歴史/記録、アメリカの思い出

いつも読んでくださってありがとうございます。

 

今日は久々に、私の歴史/記録シリーズです。主に自分の記録のために、忘れないうちに書いています。今までは、番号をつけていたのですが、これからは、時系列は関係なく、思いつくままに書くと思うので、番号をつけるのをやめました。今回は、アメリカでジャワ舞踊・ガムランに出会った時の思い出です。

 

私の歴史/記録シリーズ、これまでの記事は以下からお読みいただけます。

私の歴史/記録 カテゴリーの記事一覧 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

そして、重なっている記事も多いですが、アメリカの思い出の過去記事は以下からお読みいただけます。

アメリカの思い出 カテゴリーの記事一覧 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

さて、以前、私がカリフォルニア芸術大学に入学した時に、ジャワ舞踊をやらないかと誘われたことを書きました。

 

ちなみに、以下からお読みいただけます。

カリフォルニア芸術大学(CalArts)入学に至るまでの思い出 ~ 私の歴史/記録(9) - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

 

それでも、ジャワのジャの字も知らず、アメリカにはモダンダンスを学びに来た私は、すぐにジャワ舞踊を始めませんでした。でも、ずっと気にはなっていました。

そして、最終学年になって心の余裕もでき、その頃とても仲の良かったシンディと一緒に、ジャワ舞踊の授業を受講することにしたのです。

その後、ほどなくして、ガムランも始めることになりました。そのきっかけはこうです。

最終学年では、作曲科の学生との共同作品作りの授業もありました。

その背景を少し説明すると、この大学では、踊るだけではなく、舞踊を創作するということに重きを置いていました。ソロ、デュエット、グループで踊る作品を、少なくとも一つずつ創作し、年に何度もある大学での公演へのオーディションに受かって、その作品を発表できなければ卒業できませんでした。そして、他の科の学生との共同作品作りも、推奨されていました。例えば、演劇科の衣装デザイン、照明デザイン専攻の学生たちとのコラボレーションです。その中の一環として、作曲専攻の学生とのコラボレーションがあったのです。そこで大きな出会いがありました。

 

作曲専攻の学生との授業の初日、授業は、ダンス科の持っているシアターで行われました。いわゆるブラックボックスシアターというのですかね。真っ黒の箱状のシアターで、舞台も客席も自由に作り上げていける場所です。実は、その年の初めに、ロサンゼルスでは大地震があり、震源地が大学に近かったため、大学には9か月も入れなかったのです。その時の思い出は、また別の機会に書きますね。

それで、大学も改修され、やっと使えるようになったので、シアターの中も、まだまだいろいろ揃っておらず、移動できるコロコロの付いた椅子が、いくつか並べてあっただけでした。たぶん、椅子の数も足りなかったと思います。私はシンディと並んで椅子に座っていたのですが、その椅子と椅子の間のスペースの床に、すっと座った作曲専攻の男子学生がいたのです。ちなみに、日本と違って、アメリカでは(というかカリフォルニアではですかね)、床に座ることは普通でした。私は、私の友達との間に座られたので、ちょっとびっくりして、「なんだこいつ」と思ったことを覚えています。

最初の授業で、早速、ペアを組んで、作品作りに取りかかることになりました。それで、隣の床に座った男子学生と目があったので、彼と作品を作ることになりました。その年から修士課程に入った学生です。

縁というのは面白いもので、実は、その彼が、私の元夫です。まあ、彼とはいろんなドラマがあり、楽しいこともあり、苦しいこともあり、素晴らしい思い出もあり、どん底に落ち込んで死にたいと思っていた期間も長くありました。別れたのは随分前ですけれども、けっこう最近まで、いろんな意味で引きずっていましたね。今振り返ればおかしいですが、もう人生終わったと思っていましたし。自分自身に対する信頼も打ち砕かれましたし。もっとも、それは打ち砕かれて良かった面も多々ありますけれどもね。そして、落ち込んでいた時も、ずっとそうであったわけではなく、いろんな楽しいことも、たくさんあったのですけれども。もう、完全に吹っ切れたと思っていたのに、今でも、こう書いているだけで、感情が乱れて、涙が出てきて、自分でもびっくりです。かなりの時間がたつのに、まだまだ私の中に残っているのですね。しつこいとですね~。夢から覚めたと思っていたのに、夢の名残が残っていたという感じですかね。もっとも、普段は忘れていて何とも思っていないのですけど、思い出すとだめですね…。書くことで癒しにもなるような気がしますので、いつか、いろんな人に迷惑にならない範囲でこの件に関して書くかもです。ただ、最近は、自分で好ましくない感情からすぐに抜け出せるようになったので、まあ必要ないかもですね…。気が向いたらということで。

彼の名誉のために書くと、まあ、欠点ももちろんありましたけど、いろんな意味で本当に素晴らしい人でしたよ。私は今でも、彼の常識にとらわれないスケールの大きな発想、才能、頭の良さに嫉妬しています。負けたくないです(笑)。でも、私の人生も彼のおかげで多彩になったと思います。出会うべきして出会い、別れるべくして別れたのでしょうね。事情があったとは言え、ちょっと結婚を急ぎすぎたかも。私は自由が大好きなので、結婚にはあまり向いていないのかも。ちなみに、今の私は、彼と別れた後の私の人生も好きです。様々な事があっての今の私。何があっても受け入れるしかない。流れる水のように生きていきたいです。

 

なんだか、話が大幅にずれてしまいました…。

 

話が飛びましたが、元に戻します。その彼が、ガムランの演奏者だったわけです。ガムランだけでなくて、様々な楽器を演奏する人ですけれどもね(いまでもそうだと思いますが)。出会って、最初の作品作りをして、ほどなくして、彼と付き合うことになったのですが、それがきっかけで、私もガムランの演奏を始めることになったのです。もう、20年以上前のことです。(それだけではなく、西アフリカの音楽やら、中国の胡弓やら、日本の太鼓や尺八やらをかじる羽目に。インド音楽やイラン音楽にもちょっと関わり。まあ、自分が望んだことですけど。)人生って本当にわかりませんね。

 

カリフォルニア芸術大学では、音楽科の中に、ワールドミュージックの専攻があり、ガムラン音楽の専攻で学位を取ることができました。ちなみに、カリフォルニア芸術大学で取得できる学位は、BFAとMFA。論文ではなく、パフォーマンスや創作で、学位が取れます。もちろん、専攻しなくても普通に授業を取ることも可能です。ガムラン音楽にジャワ/バリ舞踊が付随しているという考えで、ジャワ/バリ舞踊の授業も音楽科の授業の中にありましたが、他の科の学生も受講することができました。

ガムランは、ジャワガムランとバリガムラン、舞踊も、ジャワ舞踊とバリ舞踊がありました。外の芝生の広場に面した、ガラス張りのだだっ広い部屋に、ジャワガムランのフルセットとバリガムランのセットがド~ンと置いてあり、大勢で踊るための十分なスペースもあるという、恵まれた環境でした。

先生にも恵まれていましたね。カリフォルニア芸術大学では、ジャワガムラン界の超大御所であった、Cokro Warsito氏が20年ぐらい教えていたという伝統があります。私が入った時は、ちょうど、Djoko Walujo氏にかわった時でしたけれども、彼も、ものすごい音楽家です。アメリカはそういう先生を長期で迎え入れる環境が整っていることがすごいですね。また、ジャワ舞踊は、Cokro氏の娘である、Nanikさん、そして、バリガムランは、Nanikさんの旦那さまである、Nyoman Wenten氏が教えていました。Wenten氏は、ガムランも踊りも非常にうまい方でした。それにバリのTopeng pajegan(仮面舞踊劇)でのコメディ役者ぶりといったら!いつも大笑いしていました。そして、絶対にNOと言わない人。彼は、バリ出身ですけれども、ジャワのジョグジャカルタ芸術大学に行っているので、ジャワのジョグジャカルタ様式の男性舞踊も教えていました。またNanikさんは、ジャワ舞踊もバリ舞踊も教えるというマルチぶり。

ジャワガムランとバリガムランが同じ部屋にあり、先生方もお互いに協力し合っていたので、学生たちは、特に何も考えずに、両方のガムラン/舞踊に参加していました。そんなわけで、私も何も考えずに、ジャワガムランもバリガムランも、ジャワ舞踊もバリ舞踊も学んでいたわけです。演奏もできて舞踊もできるのが当たり前だと、両方学ぶことは疑問にも思っていなかったです。いま思うと、非常にラッキーだったなと思います。それに、私は負けず嫌いですから、負けるもんかと、それはもう一生懸命練習しましたよ。ガムラン音楽だって、音楽科の学生に負けたくなかったですし。また、多くの機会にも恵まれました。卒業してからも、1年ぐらいは近所に住んでいたので、その間も練習に参加させてもらっていましたね。

 

その頃は、ジャワガムランと舞踊よりも、圧倒的にバリガムランと舞踊を公演する機会が多かったので、バリガムランと舞踊の方が熱心にやっていた記憶があります。何せ、ジャワガムランは移動するだけでも大変ですしね。それに比べれば、バリガムランの方が圧倒的に楽です。バリの場合、グンデルワヤンだったら、それこそ二人でも完結してしまいますし。アメリカにいた頃は、バリガムランは、グンデルワヤンも含めて、結構いろんな楽器が演奏でました。ちなみに、私はオフビートの方をいつも演奏していましたよ。(バリガムランをやっていらっしゃる方しかわかりませんね…。)ついていくだけなので楽です。今では、バリガムランはすっかり忘却の彼方ですけれども…。アメリカにいた頃は、ジャワガムランは、比較的簡単な楽器しか演奏していませんでしたね。ジャワガムランを本格的に学び始めたのは、2003年のジャワ留学からです。アメリカから、日本にも寄らずにジャワに直行して留学してしまったのですよね。ジャワ舞踊は、ジャワ留学前に、アメリカで良い先生との出会いがあり、そこから本格的に学んでいましたけれども。その辺りのこもごもは、また改めて書きますね。

 

こう書いてみると、いろんなきっかけがあって、ジャワ舞踊・ガムランに引き寄せられて行ったのだなと思います。面白いものですね。すべて起こることは必然ですね。

 

起こることはすべて私が作り出した幻想かもしれませんけど、この幻想はなかなか面白い。そして、幻想のある意味もあるはず。楽しんで、よい気分でいきたいですね!

 

読んでくださってありがとうございます。

あなたにとって素晴らしい一日となりますように。

 

<今日の植物(庭の植物シリーズ)> 

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ジャスミン・ホワイトプリンセスの花。良い香りです」photo by Kaori