香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊やガムラン音楽に関すること、日々の気付きや学び、海外生活で見聞したこと、大好きな植物や動物に関してなどを、私が感じたことを気ままに、ゆるゆると書いていきます

年末の時期に思い出したこと(土地変われば文化も変わる)

このブログにご訪問頂きありがとうございます!

 

今日は冬至ですね。私が住んでいる辺りでは、この時期にしては、温かい冬至になりましたが、朝から雨模様。午後になって、天気が回復してきました。

これから、まだまだ寒くなるのでしょうが、だんだん昼間の時間が長くなっていくと考えると、明るい気分になります。

 

もうすぐ2018年が終わると思うと、あっという間すぎて、信じられません。

でも今年も無事に過ごしてこれたことに感謝です。

 

さて、年末年始の挨拶の季節ですね。私は海外生活が長かったこともあり、海外に行く前の知り合いとの縁も多くは切れてしまっていて、知り合いがあまり多くないこともあり、ここのところ年賀状は全く書いていないです。まあ、それは言い訳で、ただの面倒くさがりだということですけれども…。メールやSNSで新年のあいさつはしていますけれどもね…。

 

最近思い出すのは、アメリカに行ったばかりの頃。あの頃は、この時期になると、知り合いに季節の御挨拶のカードをせっせと送っていました。その時に新鮮だったのは、送る相手の宗教を考えてカードを送るということ。日本の年賀状ではそういうことはありませんものね。

アメリカに多いキリスト教徒には、Merry Christmas & Happy New Yearというカードを送っていましたが、他の宗教の人、または、宗教が分からない人には、Season's greetings(季節の御挨拶)というカードを送っていました。日本では、キリスト教徒でなくてもクリスマスを祝う人も多いですけれども、そんなことは、ほかの地域ではあまりないように思います。もちろん、他の地域でも、他宗教の人でも、クリスマスパーティーに呼ばれれば参加しますし、キリスト教徒にはクリスマスのお祝いの言葉も言いますけれどもね。日本では、キリスト教徒の人以外には、クリスマスはただのイベントですから仕方ないですし、それはそれで楽しめばよいのですけれども、私はちょっと違和感を感じますね。とは言っても、私も機会があれば適当に楽しんじゃいますけれども!でも、クリスマスだからこうしなきゃいけないというこだわりはないです。

また、私が住んでいたアメリカやインドネシアでは、キリスト教徒にとっては、やはりクリスマスは家族で過ごすものでした。日本では、一般的に、クリスマス・イブがビックイベントで、クリスマスの日になると、もうすべて終わってしまっている感が強いですけれども、アメリカでは(少なくとも、当時の私の家族の習慣では)、クリスマス・イブは動物たちのクリスマスと言われていました。家でも、その当時飼っていたワンちゃんたちにお祝いをしてあげていましたよ。(ちなみに、ラサ・アプソというチベット原産の種類の犬を3匹飼っていたのです。シーズーのもとになった種類です。)そして、クリスマス当日に、人間たちはクリスマスを家族で一緒に教会へ行き、食事をし、プレゼントを交換してお祝いしていました。

 

プレゼントのことで思い出したことを一つ。アメリカのデパートやモールなどで、服などをプレゼントに買うと、値段の付いていないレシートをくれます。それをプレゼントに同封するわけです。もし、貰ったプレゼントの色が気に入らなかったり、サイズが合わなかったりすると、そのレシートで交換できていました。いまはどうだか知りませんが、なかなか良いシステムだなぁと感心した覚えがあります。

 

話を戻しますね。

実は、私もキリスト教徒だったことがあるのです。以前アメリカで結婚した時に、元旦那の宗教に合わせたわけです。もっとも古いキリスト教と言われ、とても儀式の美しい正教会。今でも、ギリシャや東欧、アラブ地方、エチオピアやロシアは、正教会が多いですよね。カトリックより古いキリスト教です。ちゃんと、クリスチャンネームも持っています。もっとも、大人になってから洗礼を受けたので、クリスチャンネームは自分で決めました。アメリカでは教会にも通っていましたし、教会のクワイアでも歌っていましたよ。その時は、ギリシャ正教会と縁があってそこに通っていたので、感情豊かな(!?)ギリシャアメリカ人の方たちと、意味は分からないけど、古いギリシャ語で歌っていました(笑)。今ではよく出てきた「キリエ・エレイソン」ぐらいしか覚えていないですけど。正教会は、儀式なども、このようにやれと押し付けられるのではなく、伝統的に、その土地の文化を取り入れてやりなさいという主義だったそうなので、その土地によって正教会の儀式はかなり違うようです。文化的にも征服するというやり方ではないのが私にとっては好感が持てます。私が通っていた教会にしても、通常、正教会はチャンティングだけで、クワイアはないのですが、カトリックなど他の教会のようにクワイアを作ってオルガンも使いたいという要望があったらしく、それでクワイアがあったわけです。ちゃんと歌う曲や神父さんとの掛け合いも本になっていて、それを見て歌っていたので、アメリカでのギリシャ正教会は、そうしているところが多かったのかもしれませんね。

実は、私とキリスト教は、ちょっと縁が深く、中学校からプロテスタントの学校に通っていて、聖書の勉強もしていました。ある意味、仏教や神道より、その頃はキリスト教のことの方をよく知っていたと思います。今でも、「主の祈り」や、聖書の一節を暗記していますよ。

そして、その後、とくにキリスト教を抜けたとか、そんなことはないので、今でも、キリスト教徒だと言えば、そうなのかもしれませんが…。でも、私にはなんだかしっくりこないのですよね。思えば、初めから、キリスト教は好きではあったけれども、しっくりこなかったことを覚えています。「ちょっと違うのではないか」と思う部分があるわけです。そんなわけで、今は、自分ではキリスト教徒だとは思っていないのですが。でも、何を信じるかは人それぞれ自由なので、キリスト教を否定しているわけではないですよ。

ちなみに、正教会では、クリスマスは12月25日ではないそうです。毎年変少しずつずれるそう。当時の私の義理の父は、クリスマスの日にベツレヘムで生まれ、現地の言葉でキリストを意味する名前を付けられていますが、たしか1月生まれです。(ちなみに、こんなに良い人には他に会ったことがないほど良い人でした。)イースター正教会は、カトリックなどとは日程が違うのですよね。ただ、アメリカでは、正教会でもクリスマスは12月25日に祝っていました。でも、イースターだけは、カトリックなどとは違う日程でしたね。キリスト教徒にとっては、実は、クリスマスよりもイースターの方が重要なのですよね。

90パーセント以上がイスラム教徒といわれるジャワでも、私の周りは比較的キリスト教徒が多かったです。クリスマスパーティなんかも呼ばれますし、クリスマス関連のイベントで踊ったことも何度かあります。クリスマスパーティは、もちろん、他の宗教の方々も招待されます。ジャワでは、クリスマス関連のイベントは、1月いっぱいまではやっていますね。日本だと、なんでもその当日よりも早くやり、その日が過ぎるとすべて終わる感じですが、ジャワでは逆です。誕生日もしかり。インドネシア独立記念日関連のイベントも、独立記念日の後、しばらくはやっていますね。そのあたり、日本とは考え方が全く違いますね。

ちなみに、私はジャワででも、イスラム教徒には、イスラム教の祝日にお祝いの言葉を送り、キリスト教徒には、キリスト教の祝日にお祝いの言葉を送るようにしています。もっぱらSNSを通してですけれども。ジャワでの仏教徒ヒンドゥー教徒の知り合いはほとんどいないので、その辺りのお祝いの言葉はそういえば送ったことはありませんね…。日本でも、これからますますに海外からやってくる人が増えれば、そういう気づかいも、ますます重要になるでしょうね。

 

土地変われば、文化も違いますね。興味深いです。

そして、それぞれを尊重しあっていく世界であればと思います。

 

今日は、なんとなく思い出したことを、筆が流れるままに書いてみました。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

<今日の植物(家の植物シリーズ)>

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クリスマスローズ」photo by Kaori

今年は、クリスマスローズの開花が早いです。クリスマスローズという名前はついていますが、この辺りでは、クリスマスには開花せず、もっと後になって開花するのですが、今年はやはり天候がちょっと異常なのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予防接種(破傷風と狂犬病)

このブログにご訪問頂きありがとうございます。

 

先週、今週と予防接種に行ってきました。インフルエンザではなく、破傷風狂犬病

来年、ありがたいことに、仕事で何回かジャワへ行くことになり、派遣機関の方針で、接種が必須ということなのです。ジャワは、これまでも長年住んでいましたけれども、こういう予防接種は初めてかも…。

実は、こういう予防接種は受けたことがあるのかも、あまり覚えていないのです…。以前、これらの予防接種に関して調べたことがある覚えがあるので、もしかして受けているのかもしれませんね…。ただ、その記録が見つからない。でも、かなり年月が経っているはずなので、まあ良いかですね。

ただ、こういうことは、きちんと記録に残しておかなければいけないなぁと、改めて感じました。これまで、いろんな思いがけない人生の流れで、そういう記録をきちんとできてこなかったのです。母子手帳もどこにあるかわからないですし…。

さて、予防接種を受けられる病院を探してみると、意外に少ないのですね。私は郊外に住んでいるのですが、たまたま、車で20分ぐらいの場所に今年オープンしたばかりのトラベルクリニックがあり、そこで受けることにしました。

調べてみると、狂犬病ワクチンも国産と輸入のものがあり、違いが良く分からず。メールで問い合わせを送ったら、お医者様が電話をかけてきてくれ、簡単に説明してくれました。

輸入のものの方が、世界的にはよく使われ、WHOに認められているものであることで、輸入の方を受けることに。そして、動物と接する仕事というわけでもないので、2回受けていけばよいだろうということになりました。

国産のものだと、なぜか、多くの回数を受けなければならないのですが、何が違うのでしょうね。

ただ、輸入のものは、まだ認可されていないので、副作用などが起きた時に、厚労省の予防接種健康被害救済制度の適用は受けられないとのこと。ただ、輸入業者の保障は受けられるということで、そういう紙にサインさせられました。 

狂犬病の方のワクチン接種は、とりあえず1回目の接種の後、一週間後に2回目を接種します。それで、何年か後(3~4年と言っていたような気がします)に3回目を接種すると良いとのこと。とりあえず2回接種すれば、もし咬まれた場合でも、その後すぐに現地の病院で接種し、その3日後に2回目を接種すればよいそうです。

 

調べてみると、インドネシア狂犬病での死亡が結構多いのですよね。狂犬病は発病すれば、ほぼ100パーセント死亡ということなのでこわいですね。

また、咬まれた場合、破傷風のワクチン接種も必要ということで、そうでなくても、ジャワでの生活を考えると、けがをしても、そこから破傷風になる確率が日本よりも格段に高いと思うので、この機会に、破傷風ワクチン接種ができて良かったです。ちなみに、私の場合は、年齢的に、子供のころにワクチン接種を受けているだろうということで、今回は1回の接種で済みました。それで10年はもつようです。

 

接種自体は、上腕の筋肉注射になるのですが、それほど痛くもなかったです。ただ、破傷風の方は、少し腫れましたね…。たまに、38度ぐらいの熱が出る人もいるそうですが、1日で下がれば心配ないのだそうです。私の場合は、特に問題もなく大丈夫でした。ただ、狂犬病2回目接種の翌日、なぜか接種したほうの腕の脇の下がちょっと痛かったです。なんだか、リンパが腫れている感じ。

ワクチン接種も、いろいろ体に負担があるのでしょうね。でも、まあ、仕方がないのでしょうが…。

 

今回の接種では、海外に行くときは携行するようにと、予防接種記録の冊子を作ってくれました。接種したワクチンの種類とバッチナンバー、日付、医者の名前とサインが入っています。こういうものが頂けるのは、ありがたい。ただし、もちろん料金もかかります。

こういう予防接種は、もちろん保険適応ではないので、10割負担となり、なかなか高かったです。仕事のためなので払い戻していただけるからよいものの、自費だったら結構大変かも。諸費用含めて、全部で3万円以上かかりました。でもまあ、備えというのは大事なのでしょうね。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

<今日の植物(家の植物シリーズ)>

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ビオラ・ソルベ。この株の一番花が咲きました!」photo by Kaori

 

 

 

 

 

タイミングよく出会った本

このブログをご訪問いただきありがとうございます😊

 

かなり寒くなってきましたね。私の家のあたりでは、明日の朝はマイナス気温になりそうな気配。増えに増えた寒さにあまり強くない植物たちをどうするか、頭を悩ませています。でももう、12月も半ばですものね。

 

今年もいろいろあったけれども、今、こうして平安でいられることに、感謝しかないなぁと、思っています。年の終わりになってきて、長い間放置していたのに突如片付きそうなことや、来年に向けた新しい動きも出てきて、なかなか興味深いですが、ちょっと落ち着かないです。

来年は長距離移動の多い年になりそうです。

 

なんだかんだでバタバタしていますが、最近、寝る前に、数ページずつ読んでいる本があります。OSHOの「TAO 永遠の大河 1: OSHO 老子を語る」です。かなり分厚い本。4巻まであるうちの第1巻です。

私がこの数年、感じてきたことや考えてきたことが、ものすごく腑に落ちる感じがする本です。そして、目から鱗が落ちまくっています。でも、今でなければ、きっと、なんのことやら意味がわからなかったと思うので、ちょうど良いタイミングにこの本と縁があったなぁと思います。OSHO の本は、これまでも読みたいと思っていましたし、父の本棚に何冊もあったのですが、なぜか、読む気になれなかったのです。きっと、その時はまだ良いタイミングではなかったのでしょうね。

 

最近になって、4冊いっぺんに購入する機会があり、読み始めました。

 

これまで読んだ内容は、ちょっと私は説明できないですね…。

おまけに、1日数ページしか進んでないので、なかなか読み終わらないです。でも、読みにくい本ではないです。ただ単に寝る直前に読むので、寝てしまうだけで。そして、じっくり読み進めたい本でもあります。

 

ただ、価値観がひっくり返るかもしれない本ですね。最初の数ページで、「ああこれだ!」と思いました。そうか、そうだったのかと思います。でも、意識の奥底で、もともと知っていたことのような気もします。おすすめです。

私は何度も読み返したいと思っています。ジャワの伝統的価値観との共通点もあり、私には余計に「なるほど!」と、興味深いです。でも、頭やマインドで理解することでもないのでしょうけど…。それでも、本当の意味でここに書かれていることが理解できたら、他に何もいらないような気がします。

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読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な1日となりますように。

 

 

 

12月の椿大神社と小岸大神社

1か月半ぶりに、椿大神社と小岸大神社へ、妹と行ってきました。10月の入道ヶ岳(椿大神社御神体)登山以来です。ここのところ毎月行っていたのですが、11月は忙しくて行きそびれていました。

 

10月の登山の時のことについては、以下からお読みいただけます。

入道ヶ岳(椿大神社御神体)登山 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

まず、お決まりの高速道路を降りたところにある、大鳥居。

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「高速道路を降りてすぐにある鳥居」photo by Kaori

 

今回は、ぐっと寒くなっていて、雪の積もっている山も見えました。

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鈴鹿の雪の積もった山」photo by Kaori

 

そして、いつもの通り、まず、小岸大神社へ。

いつもは、桃林寺の駐車場に車を置いて歩くのですが、神社前にある広場まで車で行けそうということで、そこまで車で行ってみました。

とても素敵なイチョウの木が迎えてくれました。すごく綺麗!

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「小岸大神社前のイチョウの木と鳥居」photo by Kaori

階段脇の木には、美しい苔が生えていました。

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「階段脇の木に生えていた美しい苔」photo by Kaori

社殿に簡単にお参り。なぜか、社殿のところにあった鈴がなくなっていました。

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「小岸大神社の社殿」photo by Kaori

そして、裏の社殿にもお参り

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「小岸大神社の裏の社」photo by Kaori

 

寒かったですが、とてもすがすがしい空気でした。

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「小岸大神社社殿前から見下ろしたイチョウの木」photo by Kaori

 

そして、椿大神社へ.。紅葉が綺麗でした。

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椿大神社の入口と紅葉」photo by Kaori

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椿大神社参道」photo by Kaori

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椿大神社参道」photo by Kaori

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椿大神社境内の紅葉と太陽」photo by Kaori

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「御船磐座の鳥居」photo by Kaori

御船磐座の奥の林が綺麗でした。

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「御船磐座の奥の林」photo by Kaori

そして、本殿の方へ向かいます。

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椿大神社参道」photo by Kaori

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「高山土公神陵」photo by Kaori

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「地球のような球の上に猿田彦神の乗った像」photo by Kaori

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椿大神社本殿」photo by Kaori

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「椿岸神社の鳥居」photo by Kaori

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「椿岸神社」photo by Kaori

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「椿岸神社近くの紅葉」photo by Kaori

かなえ滝。今回は、水量が比較的少なかったです。寒い日でしたが、手水場の水よりは、滝の水の方が温かく感じました。

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「かなえ滝」photo by Kaori

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「行満堂神霊殿」photo by Kaori

行満堂神霊殿では、近所のなくなってしまったお寺にあった仏像もあります。

ここは、ドアも開け放しになっていて、建物の中でも、この時期かなり寒いのですけれども、ホットカーペットが敷いてあり、とても温かい。そこから動きたくない感じになりました(笑)。

ここのいつもいらっしゃる職員の方が、なんとこのブログを読んでくださっていたとのこと!びっくりしましたが、ありがたいことです。ただ、以前のブログでは、「ご神職の方」と書いていたようですが、自分は「神職」ではなく、職員ですと、訂正してくださいました。律儀な方ですね。ありがとうございました。

 

行満堂の上の空がきれいでした。

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「行満堂と青空」photo by Kaori

すぐ脇の椿立雲龍神社へ。

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「椿立雲龍神社」photo by Kaori

そして、松下幸之助社。松下幸之助記念奨学金をいただいていた私としては、ここにお参りしなければという気になります。

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松下幸之助社」photo by Kaori

その後は、ここのところよく寄る、椿岸神社と行満堂の間にある鈴松庵でお抹茶をいただきました。

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「鈴松庵入口」photo by Kaori

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「鈴松庵」photo by Kaori

茶室は、シンプルな感じ。

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「鈴松庵の茶室」photo by Kaori

今日の和菓子は冬らしく、かわいらしい!

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「鈴松庵でいただいた和菓子」photo by Kaori

ちなみに、この銘々皿はお持ち帰り用です。抹茶と和菓子で800円。とてもおいしく、心がほっとしますよ。

お抹茶の写真は、撮り忘れました…。

 

パパっとお参りしただけですが、なんだかすっきりして帰途につきました。

やはり、椿大神社も小岸大神社も好きです。家から片道約1時間で行ける距離というのもうれしい。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

ジャワ舞踊、男性舞踊の大御所から学んだこと(3)~気とオーラ

本ブログにご訪問頂きありがとうございます。

 

最近、何冊かの良い本に出会い、いろいろハッとさせられることが多いです。それが、これまでジャワ舞踊やジャワ文化を通して学んだり、調べたりしたことと、いろいろシンクロしていたりして、なかなか面白いです。また、いろんなことが動き始めています。大きな流れの中で、身を任せている感覚です。いろんな意味で楽になってきています。

 

さて、今日は、前回の続き。東京で、ジャワ舞踊の大御所ダルヨノさんと、いろいろお話ししたり、踊りを見たりするうちに学んだこと、気付いたことなどのシェア、第3弾です。ダルヨノさんから学んだことも、最近の気付きとシンクロしているようで、でも相反するようでもあり、私にとってはとても興味深い流れです。そして、ダルヨノさんはジャワに帰られた後も、SNSを通して、たまに思い出したように、少しずつ、私の理解が深まるように、踊りに生かせるように、サポートしてくださるのが、とてもありがたいです。すごい先生です。そして、私も自分が受け取ったことを、次に伝えていけるように、まず、自分で体験し、そこから伝えていけたらなぁと思います。舞踊のことですし、やはり、自分が体験し、自分の体や感覚で感じてみないと、人には伝えられないことも多いと思うのです。ですので、私が書いていることは、今の時点の私が理解できること、または、私の推測となります。でも、ジャワ舞踊の奥深さを多くの人に知ってもらえればと、そして、踊る人たちの何かのヒントになればと願っています。

 

第1弾、第2弾の記事は以下からお読みいただけます。

ジャワ舞踊、男性舞踊の大御所から学んだこと(1)~エネルギーの伝達 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊、男性舞踊の大御所から学んだこと(2)~時間とスペース、気、深いところとの繋がり - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

 

今回は、ちょっと専門的になるかもしれません。ジャワ舞踊をやっている人以外は分かりにくい部分があるかもしれませんが、何かのヒントになるかもしれないし、自分のためにも書き残しておこうと思います。

 

ダルヨノさんが、練習として教えてくれたのは、自分のオーラ、または、自分の体の感覚で、だんだんと広い空間を満たしていくというもの。

これは、これまで私自身、それほど意識してではないけれど、ある程度やってきたように思います。もともと、ジャズダンサー、モダンダンサーとして、舞台に立っている時に培ってきたことですし。そして、ジャワ舞踊でも、ある種の踊りでは、培ってきたと思います。

でも、ダルヨノさんがおっしゃるのは、それを、自分のいる空間のみではなく、地域全体へ、国全体へ、地球全体へとどんどん広げていくというもの。目を閉じて、それを意識してやっていると、私はちょっと怖くなることもあります。くつろいでの瞑想では、自分が自然にどんどん広がっていき、すべてが自分の中にあって、すべての音が自分の中から聞こえてくる感覚になることは、たまにあるのだけれども、意識して、自分から広げていくのは、なぜか怖い時があります。

でも、リラックスして楽しんでやっていると出来そうなので、少しずつやってみようかなと思います。一気には無理かもしれないので。何事も段階があるのかもしれませんね。ダルヨノさんによると、呼吸を意識しながら、ポジティブな祈りか、ポジティブなエネルギーをモチベーションとして行うとのこと。ポジティブのエネルギーと共にだったら、怖くなくなるのかもしれませんね。

(ちょっと、ポジティブという言葉に私は引っかかっています。ポジティブが必ずしも良いことだとは思えなくて…。まあ、それは置いておいて…。)

 

それでうまくいかなかったら、踊りながら意識してみるとよいとのこと。どちらにしろ、踊りに生かしていくものなので、次の段階では、踊りながら、それを感じていく練習になるのでしょうけれども。その時には、ブドヨのような踊りが良いということです。

 

ちなみに、ブドヨについては、以前、以下の記事に書いています。

マンクヌガラン王宮のブドヨ・ブダマディウン(ジャワ舞踊)に関して - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

11月18日に北とぴあでブドヨを踊った後、ダルヨノさんは、いくつかのアドバイスをくれました。ブドヨ上演時、ダルヨノさんは、歌に入ってくださっていたので、踊り自体は注意してみることができなかったそうで、いろんなアドバイスをいただけなかったのは残念ですが、関連することを伝えてくださいました。

 

ブドヨの踊り手には、ポジションに応じて名前があるのですが、その中で、中心的役割を果たすのが、バタッ(Batak)というポジション。11月18日に私が踊らせていただいたポジションです。そのポジションの役割について、ダルヨノさん自身の経験から話してくださいました。

ブドヨといえば、普通は、7人、または9人の女性による舞踊ですが、マンクヌガラン王宮には、マンクヌゴロ1世の治世には、3つのブドヨがあったことが伝えられています。ブドヨ・アングリルムンドゥン、ブドヨ・ディロドムト、ブドヨ・スコプラトモです。そのうちの後の二つは、男性の踊り手によるブドヨです。女性によるブドヨ・アングリルムンドゥンは、数奇な運命をたどって、1980年代にマンクヌガラン王宮に返され、今も、王の即位記念日の式典などに踊られていますが、あとの二つは名前と、どういう事柄が踊られているのかが残っているのみのようです。(ちなみに、3つとも、マンクヌゴロ1世の戦いがテーマになっています。)そこで、ダルヨノさんが、何年か前に、男性7人の踊り手によるブドヨ・ディロドムトを、再創作されました。そして、ブドヨ・スコプラトモは、現在、再創作の途中です。(出来上がってはいるけれども、まだ、変更したい部分があるとのこと。)私は、ブドヨ・ディロドムトを何度が見たことがあります。このブドヨに出演している踊り手は、いつもみんなスター級。本当に素晴らしい踊り手たちばかりなのです。存在感もオーラもすごいです。スターが7人揃って踊るようなものです。そんな中で、ダルヨノさんがBatakのポジションを務めるわけです。その時にどういう意識で踊られているのでしょうか。

 

Batakのポジションを踊る時は、ブドヨの中で起こっているすべてに意識(「気」)を向け、すべての他の踊り手を包むように、すべてを支えるように踊るのだそうです。Batakがブドヨの中で起こっているすべてに責任を持つのです。つまり、何が起こってもbatakの責任というわけですね。

 

う~ん。Batakは、非常に重要なポジションだとは思っていたけれども、そこまでの責任だとは、私自身は自覚がなかったです。ただ「ポジションの中のひとつ」という位置づけではなく、全然違う意味合いのものだったのですね…。先日の公演前に自覚していたかったですが、踊った後だったにせよ、こういう話をしていただけるのはとてもありがたいです。なかなか、こういう話をしてくれる人はいませんから。今後に生かしていきたいと思います。

 

あとは、ブドヨでは、最初と最後の座る前や、立ち上がった後、みんなで一斉に90度曲がるところがあるのですが、そこのところも、もっと、空気が重く動くようにというか、みんなで一斉に「気」を合わせて動くように回った方が良かったようです。そういうところも含めて、一つ一つの動きに、もっと意識と「気」を向けられるようにしたいものです。自分では注意深くやっているつもりでも、慣れてくると気を抜いてしまう部分があるのだなぁと、ハッとしました。

ブドヨは踊っていても、曲を聴いているだけでも気持ちよくなってしまいますが、ぼーっとして自分の中が「空 kosong」になってしまってはいけないとのこと。「中身 isi」が重要ですね。そういうところにも「気」のつながりがあるかなと思います。

 

また、ブドヨのみならず、どんな踊りでも、空間全体(先日の公演であれば、シアター全体)まで、「気」が届くようにする、「気」で包むようにするのだそうです。

このあたり、私は少し勘違いしていました。私自身、ジャスダンスやモダンダンスをやっていたころは、劇場の端まで、自分の気というか、オーラを届かせていましたし、そのことを意識していました。でも、ジャワ舞踊、特に女性舞踊はそういうものではないと思っていたのです。ジャズダンスやモダンダンスでは、自分を大きく見せよう、出来るだけ手も足も長く見せよう、シアターの端まで自分の気を飛ばそうとしますけれども、ジャワ舞踊、特に女性舞踊では、動きも大きくないですし、視線も落としています。ですので、自分を大きく見せようとはしない踊りだと思っていたのです。

それで、ダルヨノさんに「それは、男性荒型でも男性優型でも女性舞踊でも同じですか?」と聞いてみると、「同じであるべきだと思う」との答えが返ってきました。

それであれば、きっと、ジャワ舞踊では、モダンダンスなどとは違った「気」や「オーラ」の使い方なのだと思います。もっと繊細で精妙な。ジャワ舞踊では、「個性」は出ても、「自分」は出さないと思うので。私が、ジャワでジャワ舞踊を学び始めたころに、よく私の先生に注意されたのは、「表現しすぎ」ということでした。なので、モダンダンスのような舞踊と、ジャワ舞踊は、全く表現法が違うものだと思っています。それが、勘違いにつながっていたのかもしれませんね。でも、もっと場を「気」や「オーラ」で満たしても、良かったのですね。でも、ジャワ舞踊の場合は、非常に精妙な方法だと思うので、やりすぎないよう、間違えないように気を付ける必要はあると思いますが。

 

また、ダルヨノさんが「胸にリフレクター(反射板)があるように踊りなさい」というのも、少し驚きました。例として、ダルヨノさんが挙げていたのが、車のヘッドライト。ヘッドライトは、電球だけではあまり光が強くないけれども、リフレクターが付いているので、そこに光が反射して、強い光を放つことができます。そのようなリフレクターが胸にあるように踊る、そこから「気」を放射するということでしょうか。

そのように踊るのは、モダンダンスなどをやっていた時は、いつもやっていたことでした。でも、ジャワ舞踊も同じなんだと、いまさらながら、目からうろこが落ちました。ジャワ舞踊でも、男性舞踊を踊る時は、私もある程度やっていましたけれども、女性舞踊も同じとは…。

今後、このようなこと意識しながら踊って、いろいろ試してみたいと思います。

 

また、このように踊っていると、お客さんの「気」もわかるようになるそう。

 

お客さんの「気」に関しては、私自身が踊る時にはいつも意識していることで、とても重要だと考えています。お客さんの「気」によって、私自身、(群舞でなければ)踊り方も変えますし。踊りは、どういう場かや、一緒に踊る人、演奏者とだけでなく、見る人と一緒に作り上げていくものだと思うので。

 

ダルヨノさんのおっしゃるような訓練を重ねていくと、もっともっと人の「気」が感じられるようになるかもしれませんね。

 

今回も、ダルヨノさんから学んだことを、自分自身が思うところも交えて、自由に書いてみました。書くことによって、自分の中でもいろいろ整理ができたような気がします。

他にも、まだ、踊りのテクニック的なことなど、ダルヨノさんから学んだことがあるのですが、また、気が向いたら書いてみようと思います。

 

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「ダルヨノ氏によるクロノ・トペン」photo by Kaori

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

 

 

 

ジャワ舞踊、男性舞踊の大御所から学んだこと(2)~時間とスペース、気、深いところとの繋がり

このブログにご訪問ありがとうございます。

今日は、前回の続き。東京で、ジャワ舞踊の大御所ダルヨノさんと、いろいろお話ししたり、踊りを見たりするうちに学んだこと、気付いたことなどのシェアです。

 前回の記事は以下からお読みいただけます。

ジャワ舞踊、男性舞踊の大御所から学んだこと(1)~エネルギーの伝達 - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

 まず、ダルヨノさんは、いつも平常心という感じで、全く動じない。いつも、静かに話されます。

 

ダルヨノさんとのおしゃべりで、とても印象に残っているのが、踊っている時の「waktu(時間)」と「ruang(スペース)」のこと。このあたり、もしかして、私が誤解しているかもしれませんが、踊っている時に、時間とスペースを創り出すといったことだと理解しています。または、時間とスペースを操作するというか、時間とスペースで遊ぶというか。時間とスペースを「objektif (客観的)」に見るのか、「subjektif(主観的)」に見るのかで違うという風に、ダルヨノさんは表現されていたと記憶しています。客観的に見る場合、時間は刻々と一定に動いていき、スペースも目で見えるような、この地球とか、空間であるけれども、そういう共通の観念ではなくて、主観的に見ると違うということ。私が「主観的な時間とスペースは、自分で創り出せるものということですか」と聞くと、「そうだ」との答えが返ってきたので、そういう意味も含まれていると思います。(でもそれがすべてではないと思います。)主観的な時間とスペースであれば、自分次第で変わりますよね。そして、動きによって作り出される時間とスペースは、いろんなスケール、いろんな側面があるような気がします。

それは、自分の中から出るものだけではなく、外から入ってくるものも関係しているよう。

時間とスペースに関しては、私自身、理解できるような気もするのですが、うまく言葉では表せません…。機会があれば、また、ダルヨノさんにいろいろ聞いてみたいなぁと思っています。 

 

ダルヨノさんの踊りは、どこから見ても綺麗です。踊っているとき、どの瞬間を写真に撮っても決まっているのです。形だけではなく、そのエネルギーも、雰囲気もすごいです。品があるのに、力強さもある。

ダルヨノさんの踊りは美しいだけではなく、やはり動きに個性があるというか、特徴があるのです。個人的には、スムーズそうに見えて、でも、ちょっとデコボコするような、なんというか朴訥さもあり、その両方が併存しているのが、何とも言えず印象的です。美とその反対のものとの2元の両方があるというか。

 

今回、ダルヨノさんの踊りを、リハーサルなどで何度か間近で見ていて、とても印象に残っているのが背中。背中の雰囲気がすごい。前面だけではなく、体全体が、丸く、気に包まれているよう。

 

聞けば、大学生のころ、毎晩寝る前に、眠くなるまで、シャツのボタンを使って、踊る空間に見立てたスペースで、そのスペースをどう動くのか、ボタンを指で動かして、シュミレーションをしていたそうです。イメージトレーニングのようなものでしょうかね。ボタンを使うのいうのは、体の周りの気が丸くボタンのようだからとのこと。やはりそうだったのですね。

  

他にも、いろいろな興味深いトレーニングの話もしてくださいました。

 

まず、目の前の一点を見つめる。そこに集中する。そこから、自分の真横まで、左右に、半円状に線をイメージで引いていく。そして、目の前の点から、自分の真上を通って、自分の真後ろまで、半円を描くように線を引く。そして、自分の真後ろの一点から、自分の真横まで、左右に半円状に線を引いて、前の一点から引いた左右の線と繋げて、円を作る。

 

また、「今あるがままを感じる」という禅行のような、トレーニングも。

ダルヨノさんは、ヴィパッサナーという言葉を使っていらっしゃいました。

ヴィパッサナーと言えば、ヴィパッサナー瞑想(観行)が有名ですね。物事をありのままに見るということに焦点が置かれているようです。話はずれますが、仏陀ヴィパッサナー瞑想で悟りに至ったと聞いたことがあります。私は最近、日常的にサマタ瞑想(止行)の方を行っていますけれども…。ダルヨノさんは、いわゆる「瞑想」は行っていないそうですが、踊ることが瞑想だとおっしゃっていました。確かに。踊ることは瞑想だと、私も感じますね。

ダルヨノさんは、ヴィパッサナーの他にもう一つ、キリスト教関係の言葉を何か言われていましたが、ちょっと私が知らない言葉だったので、覚えていないです。でもきっと同じような意味だったのだと思います。

さてトレーニングの話です。これは、IKJ(ジャカルタ芸術大学)の教授であり、前の学長であり、高名な舞踊家/振付師のサルドノさんがまだソロに住んでいらっしゃるとき、または、サルドノさんの家がまだソロにある時の話だと思います。ISI(インドネシア国立芸術大学スラカルタ校の修士課程コースで、ダルヨノさんが、サルドノさんのアシスタントをしていたのだそうです。サルドノさんのソロに家(小さなプンドポもあり、そこで、良くコンサートも行われていた)で、舞踊関係の修士コースの学生(といっても、その頃は、大学を卒業したての学生よりも、もっと年上の学生の方が多かったと思います)たちが集まって、もちろんダルヨノさんも参加して、夕方から朝まで、非常にゆっくり動くというトレーニングをしていたのだそうです。みんなでお金を出し合って、食べ物や飲み物を買っておき、途中食べたいときは食べ、とにかく、トイレに行く時以外は、非常にゆっくりと動くのだそうです。日がだんだん陰ってくる感じや、時間によって変わってくる虫の声、風、やがて夜になって変わる空気など、その時その時を感じながら動くわけです。(途中で気が狂いそうになって、抜けた人もいたとか。)あとで、何をしたのかシェアするのだそうですが、ある人は、何時間も、そこにいたカタツムリを観察しながら動いていたり、ある人は、柱に虫(白アリ?)が作った模様を、ずっとなぞって観察していたり、またある人は、落ち葉の葉脈を感嘆しながら何時間も眺めていたり。

その話を聞いて、「いまここにいる」「いまここを感じる」という、禅の接心などでの経験を思い出しました。

そんな風にずっとゆっくり動いていたら、どんな風になるのでしょうね。ちょっとやってみたい気もします。

舞踊って、本当に、自身の深いところとの繋がりが大切なんだなぁと感じるエピソードでした。

 

 

なんだか思いつくままに書いてしまいましたね。

 

長くなるので、今回はここまでとします。

まだ続きます。

 

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「舞台上のダルヨノ氏」photo by Kaori

 

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャワ舞踊、男性舞踊の大御所から学んだこと(1)~エネルギーの伝達

東京での公演「百花繚乱~ジャワ島の音楽と舞踊~」のために、11月16日から22日の一週間、東京の友人宅に泊めていただいていました。本当にありがたかったです。

ちなみに、公演に関しては、以下の記事に書きました。

百花繚乱~ジャワ島の音楽と舞踊~ 公演を終えて - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

マンクヌガラン王宮のブドヨ・ブダマディウン(ジャワ舞踊)に関して - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

ジャワ舞踊演目、クロノ・トペンについて - 香りの舞い ~流れる水のように 燃える火のように 静かな大地のように 自由な風のように~

 

東京滞在中、ジャワからのゲストで、スラカルタ様式/マンクヌガラン様式ジャワ舞踊の男性舞踊の大御所、ダルヨノさんも、同じお宅に泊っていらっしゃいました。今回、一週間、忙しいスケジュールの合間を縫って、いろいろ話を聞かせていただく機会もあり、また、舞踊のワークショップも2回受けさせていただいたので、そこから学んだことで、覚えていることを、シェアしたいなと思います。ジャワ芸能は、多くの人がかかわって成り立つものですし、自分の学んだことは、出来る限りシェアしたいです。きっと、役に立つ方もいるでしょうし、私自身の記録のためにも書いておきたいと思います。

ただし、私というフィルターを通して書くので、私自身、誤解している部分もあるかもしれません。また、本来、言葉で表現するのは難しいことを、言葉で書くので、そこでもいろんな誤解が生じるかもしれません。そのあたりを鑑みて読んでいただければと思います。

 

どう踊るのかという、ある意味、ちょっと深い話をいくつかしたのですけれども、公演の打ち上げ中にある話をしている時に、私が「それは、才能ということではないのですか?そういうことができるのは、才能があるからということではないのですか?」と聞くと、ダルヨノさんは「この話が理解できるということは、それができる才能があるということ。そして、私はあなたにこの話と共にエネルギーを渡している(エネルギーを込めている)から、理解できるはずだ」とおっしゃったのです。それで、ハッとしました。確かに、はっきりと言葉にして説明は難しいけれど、エネルギーを渡されて、受け取ったような感じがするのです。受け取ったものがどういうものなのか、これから探求し続ければ、徐々にはっきりと、より深く理解できていくような気もするのです。(事実、ここのところ、そのことをずっと考えていて、いろいろ気付いてきています。)それで、目からうろこが落ちたのは、こういうことは、すべて、エネルギーの伝達であるということ。意識の奥では分かっていたことですが、はっきり理解が表面化した感覚です。

ちょっと違うかもしれませんが、レイキの伝授や、瞑想などのマントラの伝授も同じことなのかなと、すごく腑におちた気分です。(誤解かもしれませんけど。)

特に、伝統芸能は、エネルギーの伝達という面が強いのではないかと感じます。師から弟子に、直に伝わっていくものであるということです。踊りであれば、振り付けだけを学ぶのではなく、その奥にあるエネルギーを受け継ぐということだと思います。極端かもしれませんが、私自身、振り付けとテクニックだけ学んで踊っても、その踊りは空っぽだと、昔から感じています。(ちなみに私は以前はモダンダンサーでした。)ダルヨノさんは「isi(内容/中身)」という言葉を使っていらっしゃいましたが、それが重要で、その一つがこのエネルギーだと思うのです。そのエネルギーを「気」と言ってもよいかと思います。師はそれをどう弟子に伝えるのか、弟子はそれをどう師から受け取って自分のものとしていくのか、そのあたりは、師と弟子、個人個人の資質や経験、環境、信頼関係によっても変わってくるかなと思います。そして受け取るには、ある程度、自分という衣を脱ぎ捨てて、オープンであることも重要ですよね。

そして、受け取るためには、同じ空間にいることがとても重要な気がします。同じ空間で、一緒に動き、一緒に呼吸すること。全身全霊でエネルギー(気)の動きを感じ取ること。そして、それを自分のものとすること。そのためには、やはり、ある程度、体もできていたほうがよいですよね。テクニックもしっかりしていた方が、そのエネルギーを使いやすいでしょうし。

個人的には、大御所でなくても、若くても、うまくて、踊っている時に意識の交流ができる踊り手と一緒に踊っている時、特に、スリンピ(女性4人の舞踊の種類)や戦いの踊りの時、私は多くを学びます。考えてみれば、その時も、無意識に、相手のエネルギーを受け取っているのでしょうね。

ちょっと、自分の感じたことや考えもいろいろ書いてしまいましたが、エネルギーや、実態がつかみにくいことを書きますよということの例として、まず、上記のことを書かせてもらいました。

 

書くのに時間がかかりますので、まず、今日のところはここまでにします。

まだまだ続く予定。

 

読んでくださってありがとうございました。

あなたにとって素敵な一日となりますように。

 

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「ダルヨノ氏によるクロノ・トペン」photo by Kaori